色と形を自由気ままに〜肝付町の画家 宍野勝文(しょうぶん)②

このように画家として順風満帆な人生を歩んできた宍野氏。晩年になると、絵画仲間など支援者の尽力により、町の宿泊施設や神社などから絵画制作の発注があったそうです。

また同時期に鹿屋市の景観の良い場所にアトリエを構え、そこで絵の制作に没頭していたといいます。

田畑さんは友人を連れ立ってアトリエに遊びに行ったこともあるそうです。そこで友人のひとりが絵を数点購入しました。

その日の出来事で宍野氏の絵画に対する思いを伝えるエピソードがあるそうです。

一行はアトリエを退去後、それぞれ用事があるということで解散しました。田畑さんはカーテンを購入するために近くのホームセンターへ行ったのだそうです。

そこで、先程訪ねたばかりの宍野氏の姿を見かけたといいます。レジに並ぶその手には絵画を装飾する額縁があり、それを大切に抱えていました。「絵画の売り上げで画材を買いにきている先生の姿を見て、芸術に対する情熱は失われていないのだと確認することができ、なんだか嬉しくなりました」

それからしばらくして体調を崩した宍野氏は70歳で介護施設へ入所することになりました。亡くなるまで約4年間をそこで過ごし、その間、筆を握ることは一度もなかったそうです。

叶岳神社の社殿に奉納された龍の絵

それでも入所者やかつての教え子たちとのふれあいなど、穏やかな日々を過ごしていたといいます。

「いつもジーパンにシャツという出で立ちで授業をしていました。画家だからなのでしょうか、他の教師に比べて雰囲気が独特なものがありました」。「ある時の授業中に先生がさっと絵を描きました。その絵をかざしながらこれは○○万円くらの価値があると話したことが印象に残っています」とは、宍野氏が美術教師をしていた時の教え子たちの思い出です。

絵仲間と一緒に(右から2人目が宍野氏)

田畑さんは「先生はデッサン力が飛びぬけていて、絵を描くために生まれてきたような人でした。そして様々なことを教えてもらいました。一番は絵画にリズムや変化を生み出すことができる画面の情報量の密度の割合です。その教えを今でも大切にしています」と話します。

田畑明美さんと共同作業で仕上げた作品

波乱万丈な人生を歩んできた宍野勝文氏。その人となりを理解して改めて彼の作品にふれると、また違った見え方ができるかもしれません。

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