「元気なよい牛を育てることが牛飼いの誇りですよ」――そう力強く話す安藤純也さんは、神武天皇の生誕地とされる肝付町宮下(みやげ)地区で長年、和牛の繁殖農家を営んできました。
今年5月で66歳になる安藤さんは、現在15頭の母牛と10頭の子牛を飼育中で、えさやりから牛舎の掃除、畑仕事に毎日、汗を流しています。
毎日が試行錯誤
もともとはお兄さんが営んでいた酪農を15歳の時に引き継いだことがきっかけで牛を飼い始め、今年で50年以上になります。29歳の時に和牛農家に転換し、以来、母牛から産まれた子牛を9カ月ほど育てた後、セリにかけ生計をたてる繁殖農家を営んでいます(ちなみに、子牛を買って肉牛として育てるのは肥育農家と呼ばれます)。
そんな安藤さんの1日の始まりは、朝のえさやりからです。「自分の朝食より、まずは牛が先」と、午前7時には稲わらと生の牧草など4種類の穀物を混ぜたえさを奥さんのまり子さんと手分けして与えます。
手分けして牛にえさを与える安藤さん夫婦
その後は、夕方のえさやりまで、牧草を刈ったり、時期によってはサツマイモの植えつけ、田植えなどを行います。
「広大な土地で、風に吹かれて作業をします。いい気晴らしになりますよ。きついなんて思ったことはありません」という安藤さんの表情を見ていると、自分の仕事を楽しみ、それに満足している様子がうかがえます。
刈っておいた自家栽培の牧草を集める安藤さん
牛を育てて半世紀という牛飼いのプロ、安藤さんによると、元気な子牛を育てるカギはえさにあります。最適のえさが配分できるように毎日が試行錯誤だそうです。
輸入物のワラなどが出回るようになっても安藤さんは「えさとなる牧草やワラの種には遺伝子組み換えではない、自然のものを使うようにしています」といって、徹底して自家製にこだわってきました。
牛に与える稲わらや牧草を細かく裁断します
もちろん、その根底には牛に対する安藤さんの深い愛情があることはいうまでもありません。
生まれた命を大切に
それを物語る、こんなエピソードがあります。
昨年7月のことです。母牛が予定日より45日も早く出産しました。生まれてきた子牛は人間でいえば未熟児、体が小さく、母牛の乳首に口が届きません。お乳を飲もうにも自力ではどうにもなりません。
そこで安藤さんがとった行動は、授乳のたびに子牛を抱きかかえて、子牛が母牛のお乳を飲めるようにしてあげることでした。それは子牛が育ち、自力で飲めるまで続いたそうです。そのかいあって、その子牛はすくすく元気に育ち、間もなくセリを迎えます。
未熟児で産まれながらも元気に成長したみほこ
「生まれた命を大切にしたい。それが牛飼いの意地」とそのときのことを振り返りながら語る安藤さんの言葉からは、牛への愛情に加えて、仕事に対する誇りが強く感じられます。
苦難を乗り越えて
このように牛への愛情と牛飼いとしての誇りを持って、夫婦二人三脚で日々の仕事に打ち込んできた安藤さんですが、牛飼いの収入だけでは3人の子どもを大学や専門学校に通わせることが難しく、まり子さんが副業をして家計を助けていた時期もあったそうです。
「大変でしたが、子どもたちのことを考えるとがんばれました」と当時のことを振り返りながら、まり子さんが話してくれました。
そうした苦難の時期を乗り越えて今は子牛の取引価格が安定しているので、昔ほどの苦労はありません。しかし、それでも安藤さんは子どもに後を継いでほしいとは思わないそうです。
えさ箱に入れる前に「つまみ食い」する母牛
「一度選んだ道を最後までやり通せ」と教え育てられてきた安藤さんにとって、すでに別の道を選んだ子どもたちに向かって、今の道を捨ててまで牛飼いになれとはなかなかいえないからです。
それでもやはり自分の代で終わることに対しては、一抹のさびしさを感じているようで、後継者に関しては子どもを飛び越えて「孫に期待しています」とのことです。
「ですから、孫が大きくなるまではがんばって続けていきたいです」
変化に対応しながらの半世紀
最後に、安藤さんに繁殖農家の昔と今の違いについて語ってもらいました。
「一昔前と比べると牧草の刈り入れなどで機械化が進み、時間的に余裕が出てきたので、今では頭数を増やしています」
さらに牛自体の変化についても「昔は見た目が重視されましたが、今では交配も進んで、肉質で値段が決まるようになっています」と語り、この50年でさまざまな変化があったといいます。
そうした変化を乗り切り、古代日本につながる地で長年、牛とともに歩んできた安藤さん夫妻。苦労しながら築き上げてきた今の暮らしに満足しつつ、これから訪れるに違いない新たな変化にも心の準備ができているように見受けられます。
半世紀といわず、60年、70年とできるだけ長く、牛飼いの生活を続けてくださいね。
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