【きもつき情報局】230年の時を経てよみがえる高山麓の武家門

数々の歴史遺産に恵まれた肝付町にあって高山地区はかつて大隅地域を治めていた肝付氏が居城を築き、16世紀後半に支配者が島津氏に移った後も大隅の中心として久しく栄えていたところです。
そのため麓(ふもと)と呼ばれる街の中心部には、かつての栄華をしのばせる武家屋敷跡などの歴史的景観が今なお残っています。残念ながら、その多くは建て替えや取り壊しなどで当時の姿をなくしてしまい、薩摩半島の知覧(ちらん)のような武家屋敷通りとまではいきませんが、それでも時代を経た石垣が立ち並ぶ街中の風景は、サムライが支配していた時代を彷彿(ほうふつ)させる味わい深い空間となっています。
きっかけは偶然見つけた一枚の写真
そうした武家社会の名残の見られる高山地区の麓に、この春、新しい観光名所が加わることになりました。
役場前の通り(十文字馬場)にある六ケ所日高家武家門がその新しい名所です。関ヶ原の戦いが終わった17世紀初頭に高山の地にやってきた六ケ所日高家の武家門であり、その日高家の15代当主・日高通博さんの姉にあたる古瀬(旧姓日高)マルさんとその夫で元鹿児島国際大学の教授の古瀬徹さんたちの手で復元されたものです。
 
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高山麓に復元された六ケ所日高家の武家門
きっかけはマルさんが2年前に実家を訪れ、家の中にあったものを整理していたときに偶然発見された古い新聞記事と、それに掲載されていた一枚の写真でした。そこに写っていたのは、昭和31年に撮影された日高家の武家門とその前に立つマルさんと近所の人たちです。
 
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当時の写真を手にするマルさん
(写真は新聞社からネガを借りて焼き増ししたもの)
掲載したのは南日本新聞。「時代の交差点 武家屋敷の新春」と題する昭和31年1月5日付の記事には、次のような記述があります。短いので全文を紹介させていただきましょう。

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「時代の交差点」と題された南日本新聞の記事
苔むしたカワラ、すりへった石だたみ、四百年の歳月を経た古めかしい武家屋敷の長屋門――。それらは超音ジェット機や原子兵器が出現する新時代の動きにクルリと背中を向けたようにイニシエの匂いを漂わせている。その昔――この武家屋敷とそこに住む武士たちは封建時代の威信と誇りに輝いていたことだろう。しかし、歴史は新しいものをつくり、古いものを過去のユメへと押しやってしまう。
ここはかつて三百石の禄高で”知行”を勤(原文のまま)めていた肝属郡内で最も古い日高家で藩政時代の尊い資料として昔の面影をとどめている。わらじにふまれた石ダタミが今はハイヒールやナイロンのゾウリにふまれている。そしてまた新春が訪れた。あざやかな日の丸がゆれ発らつとした乙女たちの笑い声があふれている。(写真は肝属郡高山町新富の武家屋敷十八代目日高サチさん宅)
この写真の左端にいる少女が幼いころのマルさんで、その写真を見たことで、マルさんの心の中に武家門修復に対する思いがふつふつとわいてきたのだそうです。
 

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左端に写っているのが当時中学生だったマルさん
「2年ほど前にこの写真が偶然でてきて、びっくりしたことが(武家門を修復しようと思った)最初の理由です。そのあと、家の前にあります小学校からこの武家門を見たときに非常に情けなく思ったのです。屋根が平屋根になっていまして。これはもう、きちんとしなければご先祖様に申し訳ないという気持ちになって(修復を決意しました)」

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修復前の武家門
困難をきわめた復元作業
ただし、武家門を修復するといっても頼りになるのは残された一枚の写真といくつかのパーツだけです。そのパーツの中には蟇股(かえるまた)と呼ばれる精巧に彫り上げられた構造材も含まれます。

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前回の修復作業にあたった大工の棟梁が保管していた蟇股
 
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取り外された金具
それ以外は、図面もなければ、過去に修復された記録の類も何もありません。手がかりがほとんどない状態で、かつての輝きを取り戻すことは並大抵のことではありません。
どこから手をつければいいのか――悩む二人に、歴史的な武家門の修復ということで強力な助っ人が現れました。一人は鹿児島県立短期大学で建築が専門の揚村固(あげむら かたむ)教授。島津氏の居城であった鶴丸城の建設委員会の委員でもある揚村教授は次のように述べて、今回の武家門修復プロジェクトの意義を強調します。
「高山の麓の雰囲気を維持していくのは、やはり目に見えるものなんですね。もちろん目に見えない歴史というものも文書に残っていたりはしますが、それをみんなが認識するというのはなかなかむずかしくて、その意味では形になっているとたいへんありがたい。しかもここは目抜き通りですからね」
そしてもう一人が鹿児島県建築士会の守真和弘(もりま かずひろ)会長。同プロジェクトが街づくりに果たす役割について次のように述べます。
「肝付町はやぶさめの行事も行われていますし、歴史的に見ても武家屋敷群がこの地域にあるということで、(武家門修復が)地域全体の街づくりの一つのモデルになるのではないかと考えています」
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武家門修復プロジェクトに協力した揚村教授(左)と守真会長
二人は専門的な立場から六ケ所日高家の武家門修復プロジェクトに加わり、最初から最後まで手弁当で参加してくれることになりました。マルさん、徹さんにとっては実にありがたい助っ人です。
揚村教授によると、実際に修復プロジェクトを進めていくうえで基本的な方針となったのは「できるだけ古い材料を使いながら昔の方法でつくっていこう」ということでした。また、古いものを残しながら新しい材料で足らない部分を補完するという点からも、今後の文化財修復におけるひとつにモデルになると揚村教授は指摘します。

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古いものを残したまま修復がなされた扉の下部分
判明した重要な歴史的事実
さて、約1年間におよぶ調査研究期間を経て六ケ所日高家武家門修復プロジェクトは今年(2013年)1月6日の起工式(地鎮祭)で正式にスタートし、その後、1月26日には鹿児島市内で素材の確認作業が行われ、さらに3月16日の現地での打合せと現場見学会を経て、ついに4月3日には修復作業にあたった業者から施主である古瀬マルさんと徹さんに武家門が引き渡されました。

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1月6日に行われた起工式(写真左からマルさん、徹さん、通博さん)
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工事中の武家門(3月16日撮影)

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3月16日の現場見学会で展示されたパネル
工事を請け負った地元業者にとってもこうした歴史的な文化財を修復するのは初めての経験だったため、数々の困難が待ち受けていたといいます。
担当者によると、残された写真と「寺社建築の手引き」という専門書を参考にしながら、当時の姿形を図面に再現し、京都の業者から武家屋敷で使われる金具を取り寄せたほか、蟇股(かえるまた)については、宮大工がまるで芸術作品を彫るかのように制作してもらうなどして、着工から3ヶ月足らずという短期間のうちになんとか完成にこぎつけました。
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少ない手がかりをもとにつくられた設計図(三宅建築設計事務所作成)
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現代の名工の手でよみがえった蟇股

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扉に取りつけられた金具は京都の業者から取り寄せたもの
また、工事の途中には歴史的に見てもたいへん意義深い事実が明らかになりました。武家門の中央部にある梁の上部に今なおはっきり判読できる文字で墨書きされた記録が出てきたのです。
記されていたのは「安永6年」と「高山」、そして三名の大工の名前でした。この安永6年というのは西暦でいえば1777年です。今から230年以上も前に建てられたであろう門の一部が今なお残っていたことが判明したのです。

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はっきり判読できる墨字で記された年号と大工の名前
また、記載されていた三名の大工は、郷土史家によると、いずれも武士でした。当時は武士のかたわら大工や左官、医者、染物屋としても武士が仕事をしていたといわれますが、今回の発見はそれを裏づける貴重な歴史的資料ということになります。
この武家門の修復作業が始まっていなければ当然、わからなかった事実ですし、そのまま朽ちるままにまかせていれば、ひょっとすると永遠に葬り去られてしまっていたかもしれない歴史的事実だといえます。
それだけでも今回のプロジェクトには大きな意味があったことがわかります。
新しい街のシンボル
さて、数々の難問を克服してついに完成した武家門を見て、この家に生まれ、育ったマルさんは、その予想以上の出来に満足しているようです。
「うれしいの一言です。いろんな方に協力していただいて、やっとできました。思っていた以上に立派なものになりました。できるだけ長くこの姿を保ってほしい、それが第一の希望です。そして門の前が小学校ですので、小学生がこれを見て歴史の勉強のひとつにしてもらえればと思います」
また、夫の徹さんも次のように述べて武家門の完成を喜んでいます。
「揚村教授や守真会長をご紹介いただいた大脇晋平氏(横浜市)、私たち施主側と工事現場の間の調整にご苦労された三宅義則氏らたくさんのご協力のあったことに深く感謝申し上げたいと思います。この武家門が歴史豊かな肝付町の新しい顔として、地元の人たちだけではなく外から訪れた人たちにも、その歴史を伝える役割を果たしてもらいたいですね」

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武家門をくぐるマルさんの母親・サチさん(4月6日午後)

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武家門復元を祝って撮影された記念写真
さらに、プロジェクトを初めから支えてきた県立短大の揚村教授と鹿児島県建築士会の守真会長も完成後の武家門を目にして感慨深げです。
「思いのほか立派なものになりました。本当にみなさんの協力のおかげだと思っています。ただ、みなさんに知っておいてもらいたいのは、古いものが残っていたのでここまでできたということです」(揚村教授)
「建築士会として協力できたことを本当にうれしく思っています。六ケ所地区の景観のシンボルとして、みなさんでご覧いただければと思います。施主の古瀬さま、日高さまに深く感謝したいと思います」(守真会長)
たまたま見つけた一枚の写真が古瀬マルさんを動かし、夫の徹さんやそのほかの人々の協力を得ながらついに復元された六ケ所日高家武家門。施主の願いどおり、高山地区の新しいシンボルとして末永く人々に大切に守られていってほしいものです。
そして、この武家門が地域の過去と現在、そして未来をつないでくれる大切なかけ橋になってほしいと思います。
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