肝付町南東部に位置する辺塚海岸は町内でもっとも美しい海岸として知られ、その透明感あふれる碧い海とまぶしいばかりの砂浜は「まるで南の島のビーチのようだ」と訪れる者を驚かせ、そして彼らの心をじんわり癒してくれる特別な場所です。
そんな絶景地に14年ほど前に都会から移り住み、夫婦水入らず、悠々自適な暮らしをしているのが今回の「われら、きもつき人」の主人公、平石承一郎さんと幸子さん夫妻(ともに78歳)です。
故郷を離れ首都圏に暮らす
二人が住む家は船間(ふなま)漁港から辺塚海岸に通じる細い道路脇にあり、まわりを緑や青といった自然の色が支配するなか、その鮮やかなオレンジ色の屋根が異彩を放っています。近くに辺塚集落があるとはいえ、一般的に見れば、かなり不便な土地です。近くに買い物をする場所もなければ病院もありません。
なぜ、二人は快適な都会での生活を離れて、そのような場所にわざわざ移り住んだのでしょうか。
見晴らし台に並んで座る平石さん夫婦
ともに旧・田代町(現・錦江町)出身で同級生だったという承一郎さんと幸子さん――大学入学とともに地元を離れた承一郎さんは、その後長年にわたり東京や横浜といった首都圏で働き、暮らしてきました。
白いあごひげを伸ばし、一見「仙人」のような顔立ちの承一郎さんが、故郷の大隅半島を離れて鹿児島市の高校へ進学したときのことを笑いながら次のように話してくれました。
「信号機のある交差点を渡れるかというのが一番の心配でしたね」
当時、田代には信号機がなかったのです。
医者になることを両親から期待され、大学進学時には医学部に合格したものの、医者になるのが嫌で、最終的には千葉工業大学に進み、工学の道を志すことになりました。在学中にはロケットの素材となる金属の研究アシスタントをするなどして研究に励んだといいます。
卒業後は東京の自動車部品工場に就職、25歳で昔から知っていた幸子さんと結婚することになり、2人の子宝に恵まれますが、まわりの人のすすめもあって承一郎さんは43歳のとき独立を決意、横浜で設計施工会社を起こします。
経営者ともなれば、技術分野だけではなく営業の仕事も手掛けることになり、承一郎さんは手当たり次第さまざまなジャンルの本を読み漁るようになったといいます。
「万人と話ができるようになりたかったからです」
つまり、営業で人と話をする際、だれに対しても話題が提供できるようになりたいと思ったからだそうです。
今なお好奇心のかたまりのような承一郎さん
「理想の暮らし」を求めて
なかでも特に関心を持ったのが古代中国の詩人、陶淵明の漢詩でした。その詩に触れたのは高校生のときの教科書に載っていたのが最初ですが、首都圏で最先端の技術にかかわる仕事をする一方で、陶淵明の思想に感銘を受け、いつかは陶淵明のように田舎に帰り、自然を感じる暮らしをしたいと思うようになったといいます。
そして、その「理想の暮らし」を実践するために選んだのが、この辺塚の地だったというわけです。
「淵明の『帰去来辞」にあるように、『帰りなんいざ』ですよ」
でも、承一郎さんはそれでいいとして、いっしょに暮らす幸子さんは反対しなかったのでしょうか。
「同窓会ではいつも『田舎に帰りたい』といっていましたから、目標を達成させてあげないと笑われると思って(思い通りにさせてあげることにしました)」
実際の鹿児島への帰郷は承一郎さんが大病を患ったことがきっかけでした。回復し、「まだ働きたい」という承一郎さんに幸子さんは「早く帰らないと地域の人にもなかなか受け入れてもらえないよ」とすすめたといいます。
結局、辺塚への移住が実現したのは今から14年ほど前の平成11年11月。「毎日朝日が拝めて、人がいない場所」をほうぼう探しまわったといい、今は「理想通りの生活ができていますよ」と辺塚を選んだことに大満足の様子です。
平石さん宅の庭から見える辺塚海岸
自然に溶け込む暮らし
平石さん夫妻の家では庭からはもちろん、部屋の中からも海が見えます。位置の関係で、海から朝日が昇るのは秋から春にかけての時期だそうで、その時期、承一郎さんは毎朝5時半に起きて掃除などをして体を動かしながら朝日を眺めるのを日課にしているそうです。
「夕日は物悲しい気持ちになりますけど、朝日は力をもらえるじゃないですか。毎年、元旦には風呂に入りながら朝日を眺めるようにしています」と朝日を拝むのが承一郎さんにとっての元気の源になっているようです。
ガードレールを利用して運動しながら海を眺める承一郎さん
故郷の田代にいる人からは「なぜ田代に戻ってこないのか」といわれたそうですが、「田代には海がないから」と辺塚を選んだことに躊躇はなかったとのことです。
ちなみに、理想の地を探し求めているとき、かつて暮らしていた土地の近く、伊豆のあたりを探してみたそうですが、ここぞという場所がなく、大隅半島の東海岸沿いの地域を探してまわったそうです。たまたま幸子さんと同じ集落出身の女性が辺塚に嫁いでおり、その縁で辺塚の地を訪れ、海の眺めと山の眺めの両方が気に入ったことから、この地に決めたのだといいます。
平石さん夫婦が土地を購入したのは移住する10年以上も前の平成元年。当時、家の前の道路はまだ砂利道だったそうです。今では道路事情がよくなり、故郷の田代にも30分足らずで行くことができますが、当時は1時間ほどかかったといいます。
澄んだ海と砂浜が美しい辺塚海岸までは歩いてすぐです
平成11年から家を建てることになり、建築工事の間、承一郎さんは田代から通いながら周辺の竹やぶを払い、庭や畑づくりに取り掛かったそうです。実家から持ってきたヒトツバやサルスベリ、友人から贈られたブーゲンビリアなどを植えたり、見晴らし台や椅子をつくったりして、移り住んでからも少しずつ手を加えていきました。
山からのわき水を引いている貯水タンクにつけたろ過装置も、自分で改良したといいます。そうしてつくられた庭や畑には鳥の声が響き渡り、グミやウメ、ザクロ、ユズなどさまざまな樹木が植えられ、季節ごとに花や実をつけています。
鮮やかに咲くザクロの花
道路脇の畑はサルやイノシシに荒らされることもあり、取材したときは「サルに食べられてしまう前に」と早めに収穫したニンニクが軒下に吊り下げられていました。
「サルは人間の食べるものなら大抵食べます。でも、サルにもサルの事情があると思えば腹は立たないですよ」と承一郎さんは悠然としています。養蜂もしていて蜂蜜を採っていますが、さすがにこれにはサルも手を出さないようです。
木陰に置かれたミツバチの巣箱
このように自然豊かな、人が少ない土地で悠々自適の暮らしを送る夫妻。だからといって人嫌いなわけではありません。「人が訪ねてくるのも楽しければ、訪ねて来なくても勉強ができるから楽しい」と承一郎さんはいいます。
あいにく幸子さんはこのところひざを悪くして歩くのに苦労しているそうですが、足が達者だったときには、自宅前の坂を下ったところにある辺塚の集落をよく訪れては、地域の人々と交流を深めていたそうです。
「今はひざが痛くてなかなか行けなくて」と、本当に残念そうです。
人との出会いを大切に
人が多い首都圏での暮らしも嫌いではなかったと承一郎さんはいいます。
「人が三人いれば必ず一人は師になる、学ぶものがあるというような意味の言葉が論語にあるんですよ(『三人行、必有我師焉』)。ですから、人がいればいるだけ先生がたくさんいるわけです」
都会暮らしをしていたときの承一郎さん、たくさんの師を見つけて、その師からさまざまなことを吸収していたのでしょうね。
辺塚海岸を見下ろす庭に立つ平石さん夫婦
そんな前向きな承一郎さんのことを幸子さんは「自分とは違う」といいます。
「わたしはくよくよするタイプなのだけど、この人は悪いことがあってもいい方向へと考えることができて、すばらしいと思いますよ」
幸子さん自身も首都圏で暮らしていたとき、近所で親しくしていた友人たちとは今も交流を続けており、ときおり東京や横浜に住む子供さんを訪ねたときなど、昔の仲間と会って話すといいます。
そんな都会と違い、今の環境ではあまり人との出会いのチャンスはないわけですが、それでも承一郎さんは万が一だれかが訪れてきたときのために、新聞や雑誌をこまめにチェックしては気になる本を購入しているといいます。「訪れた人との話が長続きするのがいいですから」というのが理由です。
最近買った本を見せてもらったところ、時事問題から科学、哲学、文学などジャンルが多岐にわたっています。同じように音楽もジャンルを問わず聞くそうです。
ときには「勉強ばかりして」と幸子さんから怒られることもあるそうですが、これも承一郎さんが若さを保つ一つの秘訣なのでしょうね。
承一郎さんが読んでいるさまざまな本
そんな夫妻のもとには、近くの小中学校のALT(外国語指導助手)もよく訪ねてくるそうで、承一郎さんは1回につき英単語を一つずつ教えてもらっているといいます。
ちなみにALTの間で平石さんのことは知れ渡っているようで、先日も新たに赴任したALTが「前任者から紹介されました」といって訪ねてきたそうです。好奇心たっぷりで相手思いの人柄ゆえに承一郎さんや幸子さんを慕ってくるのでしょうね。
幸子さんお手製の漬物と自家製のはちみつ
辺塚という、町の中心部から遠く離れた辺境の地に住む承一郎さん、「不便というのは私にしてみれば幸せなことなんですよ」といいます。
「たとえば道具がなければ、それを自分でつくることも楽しみであり、生きている証です。便利なことだけが幸せとは限りません」
幸子さんも「たまに横浜などへ出かけると便利だなとは思うのですけど、やっぱり田舎がいいです。都会では人付き合いもなかなか踏み込めないところがあって難しいけれど、田舎ではだれとでも親しくなれて友達をつくれますから。若い人がいないのは少しさびしいですけれど、もう都会暮らしはできませんね」といいます。
町から離れた辺境の地で退屈するどころか、読書に和歌の勉強、畑づくりに庭の手入れと、手と頭を休める暇がないくらいに忙しい日々を送っている承一郎さんと幸子さん。美しい自然に囲まれ、穏やかに暮らす夫婦にとってはこの辺塚の地こそが、陶淵明がうたった「桃源郷」そのものなのかもしれませんね。
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