【きもつき情報局】歴史探訪 第1回 塚崎編1 古代のきもつき

古代の古墳群から武家時代の流鏑馬、そして太平洋戦争末期の戦跡まで、幅広い時代の史跡や物語に恵まれたきもつき――そんなきもつきの豊かな歴史について紹介するのが、この歴史探訪のコーナーです。

ここでは主に肝付町生涯教育課が主催し、年間を通じて地域の歴史について学ぶ講座「ふるさと探訪」に密着取材し、古代史から近現代史までを幅広く学んでいく予定です。
 
同講座で講師を務めるのは肝付町文化財保護審議会会長の海ケ倉喜通(かいがくら よしかず)さん。2013年6月8日に開催された第1回の講座では、数々の古墳群と巨大な大クスで知られる肝付町塚崎を舞台に、古代から中世にかけての歴史を学んでいきました。
 
今回の歴史探訪では第1部として、同日行われた海ケ倉さんによる講義をダイジェスト版でお届けします(なお、下の文章は講義を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています)。

きもつきの地形の成り立ち
 
きもつきの大地は大部分が海の底でした。縄文海進というのはご存知と思いますが、縄文時代に海水面が現在より7、8メートル、上がっていました。そしてこの周辺の平野はほとんど海の底でした。
 
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権現山山頂から望む肝属平野
 
その証拠にこの下を、ボーリングすると上の表土を突き抜けたところは砂地になっていて貝殻などが出てきます。それが今の田んぼがある地域、宮下(みやげ)まで、それから串良の方は有里の先の下中というところまで海の底でした。
 
それがだいたい4000年くらい前に、海退といいまして海水面がずっと下がっていき、今の平野ができました。
 
ここの肝属山地はもともとは6000万年くらい前までは海底2000メートルだったといわれています。
 
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南西へのびる国見山系
 
今の国見の山塊というのは、おおよそ北の方から佐多の方に向かってほとんど直線状に高い山ができていますが、あれは海の底がひび割れてそこにマグマが上がってきて、それが固まって花崗岩、御影石になっているんですね。それによって山が高く盛り上がっているわけです。
 
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山間を流れる川に見られる花崗岩
 
そして唐仁から大崎に向かってずっとまっすぐ新川西というところを通って、溜水(たまりみず)を通って大崎に出る、そこは砂地なんですね。砂の丘、第一砂丘です。
 
昔、砂丘ができて、それにみんなが家をつくって住んでいます。今の唐仁古墳群などもその砂丘の上につくられています。古墳がつくられたのは大体1500年くらい前で、それより4、5000年前に砂丘はできているわけです。
 
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肝付町に隣接する東串良町にある前方後円墳(唐仁古墳群)
古墳の様式と意義
 
先ごろ、西横間に昔の古墳の跡が見つかりました。その古墳は地下式土壙(ちかしきどこう)といって、縦穴を2メートルから3メートル掘って、その横に部屋をつくります。これを玄室といい、その中に遺体を埋葬しています。それはここの塚崎台地にも10基くらいみつかっています。
 
埋葬法としては、南九州の独特の埋葬法です。これは西都原(さいとばる)から南のほうしかありません。一説には隼人の埋葬法、隼人の墓だといわれていますが、まだはっきりわかっていません。
 

宮崎県西都市にある西都原古墳群
 
今日見ていただく古墳は上に土を盛った高塚古墳です。まるいのが円墳、それからしゃもじのような形をした前方後円墳です。塚崎には全部で44基ありますが、5基が前方後円墳で、これは大和の古墳の独特の形だといわれています。
 
前方後円墳の分布図
 
(前方後円墳のある)古墳群の南限がこの塚崎古墳だといわれています。これは大和政権からなんらかの形で勢力が及んだ証拠というわけです。
 
塚崎古墳群の案内板
 
謎の多い古代の歴史
 
南九州から大和に行ったといわれている神武天皇は肝付町宮下で生まれたという伝説があります。このことについて、南九州から行ったことは間違いないだろうと学者の人たちがいっています。そして大和の地で日本全国を統一する政権ができあがった、これが日本の国の始まりです。
 
大和政権が成立する前はたくさん国があって、卑弥呼の国、邪馬台国も30ぐらいがひとつの国になっていたといわれています。そして南九州にあった、同じように豪族がたくさん集まった国が狗奴国(くなこく)です。
 
この狗奴国が何回も卑弥呼の国を攻めて、最後には攻め滅ぼしています。そしてその狗奴国の中から天皇家の祖先が大和に行き、国が始まったということになっていますが、はっきりしたことはわかっていません。
 
古事記に書いてあることや日本書紀に書いてあることは、信ぴょう性がないものが多いです。古事記は700年代にできたものですが、それ以前のことが書いてあります。古墳時代にしてもそれより200年前のことですから、言い伝えなどにもとづいて書かれているわけです。
 
この日本書紀、古事記というものは、日本がそういう歴史をもっているんだというひとつのシンボルにしているわけです。どこまでが信ぴょう性があるかということは学者のなかでも議論されているところで、はっきりしたことはわかりません。
 
この周辺のことでも、たとえば塚崎では古墳が大体300年から400年の間に44もつくられましたが、だれがいたのか、あの墓に葬られたのはだれかなど、全然わかりません。この台地の周辺にどれだけ人が住んでいたかということもわかりません。
 
塚崎の台地につくられた古墳
 
花牟礼の池がありますが、あの池の南側はだいぶ広い畑になっています。そこの畑のなかの道路工事を20年くらい前にしました。発掘調査をすると、住居跡がたくさん出てきました。弥生時代から古墳時代の住居跡です。ですから、あの辺にたくさん人が住んでいたということはわかっています。
 
近くの畑から住居跡が見つかった花牟礼池
 
上原(うえばる)の採石場に登って行った先の台地にも古墳時代の住居跡がありました。ところが、ここの塚崎台地には住居跡というのは見つかっていません。ただ花牟礼に行く途中に弥生時代の住居跡というのが、私が中学校の2年生のときに見つかりました。
 
各地に残る伝説
 
歴史は文献に残っていないと言い伝えなどでは信用されません。たとえば神武天皇が宮下で生まれたという言い伝えについても、記録も何もありません。鹿児島県が建てた大きな記念碑がありますが、伝説地ということで記念碑を建てています。
 
ただし、伝説というのも根っから作り話だけではありません。ウガヤフキアエズノミコトの御陵が吾平山上陵ですが、それとの関連があると思います。
 
鹿屋市吾平町にある吾平山上陵
 
そして同じく宮下にある桜迫神社の脇に西の国の宮跡、ウガヤフキアエズノミコトが宮を建てていたところだという記念碑が建ててありますが、これも伝説によるものです。
 
桜迫神社の脇に立つ石碑
 
また、国見山頂にも、高屋山上陵というヒコホホデミノミコトの御陵だといわれるところがありました。今、内之浦のまちに高屋神社というのがありますが、その前身です。
 
肝付町内之浦地区にある高屋神社
 
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