きもつきの歴史について紹介する歴史探訪の第1回塚崎編の第5部では、肝付氏四代兼員の三男で野崎を治めることになった兼弘の供養塔について解説します。
講師は、肝付町文化財保護審議会会長、海ケ倉善通(かいがくら よしかず)さんです。なお、下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています。
野崎城跡に立つ墓
この墓(供養塔)は肝付氏三男の墓と書いてあります。肝付氏の三男というのがだれかといいますと、5代の兼石(かねいし)の時代の人です。4代の兼員(かねかず)が父親、その三男の兼弘(かねひろ)です。
兼弘は野崎を譲られました。野崎の土地を全部兼弘にあげますという昔の文書が残っています。長男の兼石(かねいし)は高山を譲られています。次男は岸良にいって、岸良氏になりました。
江戸時代に建てられた肝付氏の墓(供養塔)
この墓は以前、大きな木が倒れてきて崩れてしまいました。この部分(屋根と土台の間の囲いの部分)は数枚の石板でつくってありましたが、つぶれてバラバラになって組み立てようがなかったので、3年前、石材店に頼んでこの四角い部分をつくってもらいました。肝付氏の大事なお墓ですから。
これは昔からのものではなく、正徳5年(1715年)、江戸時代の中頃に肝付氏の墓として建てられています。ここに建てたのは、この場所が野崎氏の城だったからです。野崎城といいます。塚崎城ともいいました。
墓を建てた年号などが書かれていた石碑(一部破損)
南北朝期の合戦
ここでは南北朝期、1335年の5月に肝付氏と島津勢が大きな戦をしています。激戦と(記録に)書いてありますから、よほど大きな戦だったようです。
当時、肝付氏の8代兼重(かねしげ)は(宮崎県都城市の)高城(たかじょう)にいたのですが、島津勢が(鹿屋市輝北町の)百引(もびき)の加瀬田ヶ城(かせだがじょう)に攻めてきたので、高城から援軍を送りました。
せいぜい200騎か300騎ぐらいだったろうと思うのですが、それが志布志に出て柏原(東串良町)に来て波見に渡ったと(記録に)書いてあります。
そしてここに来たところが、肝付勢の応援が来るという情報を得ていた島津勢が待ち受けていました。激戦になって、たくさん戦死者を出しています。ここの城主だった人も戦死しました。
(その時の城主は)この(墓の)兼弘ではなく、それより何代か後の人です。敵味方の古い墓もたくさんあったのですが、納骨堂をつくるときに全部倒したりして今はもうなくなっています。埋まっていると思います。
(第6部 「塚崎の田の神」に続く)
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