きもつきの歴史をたどる歴史探訪。ここからは第2回高山編がスタートします。
高山とは旧高山町を指し、16世紀後半まで大隅一帯を治めていた肝付氏が居城を置いていたところで、さまざまな史跡にめぐまれたところです。
高山編の第1部では、江戸時代に高山用水路を築いた島津図書頭久通(ずしょのかみひさみち)の供養塔(肝付町新富地区)をとりあげます。解説は引き続き肝付町文化財保護審議会会長の海ケ倉嘉通(かいがくら よしかず)さんです。
なお、下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています。
新田開発の功労者
これは寛文(かんぶん)年間に高山用水路をつくった島津図書頭久通という人の供養塔です。地頭でした。寛文年間といいますと西暦の1661年から1671年になります。
肝付町横間にある島津図書頭久通の供養塔
以前は、まわりの柵なんかも倒れて向こうに埋まっていたのですが、2年ぐらい前に掘り起こして整備をしました。一昨日、わたしも来て草だけはとったのですが、まだ整備がなかなか行き届いていません。
ここから5キロくらい先にある、二階堂家住宅のずっと上流の田布尾のところで高山川に堰(せき)をして、10年間かけて、山すそを通って新田の溝をここまでつくりました。
この水路はぐるっと向こうの丘のところをまわってこちらに流れてきて、この下を流れてそれから池之園とか野崎の方に流れています。
この向こうは広い田んぼになっていますが、それ以前は荒地でした。その荒れた土地を開墾するために水を引きました。田んぼにするためには水が必要ですから。
湛水院周辺の田んぼ
それをしたのが、図書頭、宮之城島津家の4代目の殿様です。この人は鹿児島の島津家の家老をしていました。
(水を引くのには)相当な費用がかかったようです。さつま町に山ヶ野金山(または永野金山)というのがありますが、図書頭はあそこの金山を開発した人でしたので、その資金を利用して県下のたくさんの土地を開墾、開発をしています。特に田んぼが多いです。
(図書頭が開墾した)一番大きな田んぼは国分新田といいます。今、国分の町の海岸線に国道10号が通っていますが、あそこまでは昔は海でした。国道から南側のほうは湿地帯で、潮が満ちた時は潮が入ってくるようなそんな場所でした。そこを埋め立てて田んぼにしたんですね。
あそこが一番大きな田んぼですが、ここの高山の田んぼも二千石を得たと(記録に)書いてあります。
二千石というのは私がざっと見積もってみると100町歩くらいの田んぼからとれたと考えられます。ここから見渡せる池之園の前までの田んぼがだいたい100町歩くらいあります。そこに水を用水路で引いて開墾して田んぼにしました。
ですから図書頭というのは非常に高山のために貢献した人です。
当時、開田が盛んにされていて個人ででも開墾ができました。武士などが自分で土地を買ってその土地を畑にしたり田んぼにしたりしています。農家でもできたのですが、江戸時代までは農家の人たちは大体自作地でなくて、地主の人たちの土地の耕作をして、それで分前をもらうというようなやり方でした。
明治に入ってからでも大地主がいまして、そのなかで小作をして地主に上納していました。上納というのは、できたものの6割くらいを地主に納めるというようなやり方です。これが第二次大戦後に農地解放になりまして、地主から土地を借りてつくっていた人たちもわずかなお金で小作地を買い取って自分の土地にしました。
昔は国の土地でしたので国から与えられた耕作地を耕作していたことになります。江戸時代に入ってからの薩摩藩は特にそれが多かったんですね。ですから非常に税に苦しんでいたようです。薩摩藩では、8割ぐらいを税に納めてあと2割ぐらいが自分の取り前というような一番過酷なやり方をとっていたようです。
なかには、逃散(ちょうさん)といいますが、集落の人たちがまとまって割合税が軽かった宮崎県のほうへ逃げていったという記録もあります。
だけど、この島津図書頭のおかげで広い田んぼが開かれて、農家の人たちもだいぶ耕作地が広がっただろうと思います。
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