【きもつき情報局】歴史探訪 第2回 高山編3 野町

きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪の第2回高山編の第3部では、江戸時代に薩摩藩が許可を与えて商業が営まれていた地区、「野町」について肝付町文化財保護審議会会長、海ケ倉善通(かいがくら よしかず)さんの解説でお伝えします。
 

 
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられていますのでご了承ください。
 
三間間口の並ぶ通り
 
この信号から向こうの信号まで大体300メートルちょっとだろうと思いますが、昔の「野町」、江戸時代のまちがあったところです。
 
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かつて野町と呼ばれていた通り
 
家が取り壊されてしまったところもありますが、この通りに面した家の幅は三間間口(さんげんまぐち)といいまして、ほとんどいっしょです。
 
(道路の脇に)大きな記念碑がありますが、「塞神(さいじん)碑」と書いてあります。防ぐ神、災いを防ぐ神様です。野町ではたびたび火事がありました。火事を防ぐとか、まちに住んでいる人たちの災いを防ぐためにこの塞神碑というのは建てられています。
 
これには、当時この記念碑を建てた人たちの名前も書いてあります。説明板にも書いてあります。
 
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道路脇に立つ塞神碑
 
文政7年(1824年)の「高山名勝志」という記録の中に野町の家部、家が79軒、79戸あったという記録があります。人口が340名でした。
 
ですから、当時はこの三間間口の建物がぎっしり向こうの信号からこちらの信号までの間に詰まっていたんですね。
 
売られていたものは、塩や油、金物など限られたものだろうと思います。道路に面したところがお店だったのですが、そんなに広い店ではありません。
 
奥の方へは制限がありませんので、長いところは100メートル近くあったと(記録に)書いてあります。
 
ずっと土間が通っていて、そこを牛を引いたり馬を引いたりして、裏の方へ通れるようになっていたんですよ。というのは商売をしながら耕作もしていたからです。田んぼをつくったり畑をつくったりしていたんですね。当時は商売だけで生計が立てられるような状態ではなかったということになると思います。
 
この間口の三間はほとんど残っていますので気をつけて見てください。
 
また、ここでは県の指定文化財の八月踊りが(旧暦の)8月の盆のころあります。この道路と道路の横の広場を利用して八月踊りをしています。そして当日は水神祭をします。
 
こちらには水神様が祭ってあります。石の祠(ほこら)、水神様です。この前で法楽(ふらく)といいますが、鉦(かね)踊りをします。それは昼にして、夜は八月踊りをするわけです。
 

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水神をまつる祠

 

 
今通ってきた道路が昔の道路で、車が通っている道路(県道539号)は新しくつくられた道路です。ですからこの裏側のあたりはほとんど田んぼで、そんなに家はなかったんですね。
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