【きもつき情報局】歴史探訪 第2回 高山編4 四十九所神社と楡井頼仲

きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪の第2回高山編の第4部では、四十九所神社(しじゅうくしょじんじゃ)と弓張城(きゅうちょうじょう)を築いた楡井頼仲(にれい よりなか)について肝付町文化財保護審議会会長、海ケ倉善通(かいがくら よしかず)さんの解説でお伝えします。
 

 
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられていますのでご了承ください。
四十九柱の神様をまつる神社
 
ここの四十九所神社の名前については、わたしが(町立歴史民俗)資料館にいたときによく「なんと読むんですか」「どういうこと(意味)なんですか」という問い合わせがよく来ていました。
 

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流鏑馬が奉納される肝付町新富の四十九所神社
 
そして説明板を読んでいただけばわかると思いますが、四十九柱の神様がまつられているんですね。
 
四十九人の神様がまつってあるということで四十九所神社となっています。三所権現とか六所権現というのがありますが、三人まつっていたり、六人まつっていたりします。「所」という字を使って神様の数を表しているんですね。
 
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四十九所神社の説明板
 
この四十九所神社は途中で火災になりました。昭和46年(1971年)だったですかね。そのあとに建て替えたものです。以前は銅板がはられた立派な社殿でした。
 
高山と縁の深い楡井頼仲
 
ここの裏山は城山と呼ばれている、昔の弓張城(きゅうちょうじょう)という城の跡です。この山の形が弓を張ったような形をしているので弓張城です。
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高山地区を見下ろす城山
 
この城を築いたのは、ここに記念碑が立っていますが、楡井頼仲(にれい よりなか)という人です。
 
南北朝期に肝付兼重(きもつき かねしげ)が高城(宮崎県都城市)で南朝方の旗揚げをして、中心となって活躍しました。そのとき北朝方で敵対したのは畠山氏や島津氏、根占(ねじめ)氏、楡井氏です。
 
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四十九所神社境内にある楡井頼仲表忠碑
 
楡井氏は志布志城にいました。この頼仲という人のお父さんは頼理(よりまさ)という人で、その人は(北朝方だったので)高城で兼重を攻めています。
 
ところが子供(頼仲)の代になって、その当時は兼重公も高山に帰ってきているんですが、(頼仲は兼重と)一緒に南朝の中心になって働きました。
 
そして途中で兼重公が亡くなって、そのあと、この頼仲公がここを中心にして勢力を広く伸ばして、ここの上に城を築いたんですね。
 
頂上に広いところがあってそこは楡井丸(にれいまる)と呼ばれています。そのほかにも小城丸(こじょうまる)とか平坦面のところがあります。高山城のように整備はされていませんけれど、城があったところというのがわかります。
 
そしてこの表忠碑というのを昭和になってから高山の女学校などの人たちが建てたようです。
 
ここから向こうの東の方に向かって、御社神社という、この四十九所神社の分社があります。そして、そのちょっと先に八幡神社というのがあります。そこは南北朝期にこの楡井頼仲が建てた神社です。
 
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楡井頼仲が建てた八幡神社
 
波野の学校の少し先の山のほうに梵天堂と呼ばれる昔の帝釈寺という古いお寺の跡があります。昌林寺の先にも帝釈寺があって、高山には帝釈寺が2カ所あったわけです。
 
その帝釈寺を楡井頼仲が志布志に移したのが今の大慈寺です。大慈寺の前身は波野の山の上にあった帝釈寺なんですね。
 
ですから楡井頼仲がいかに高山と縁が深いかということがわかります。
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