きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪の第2回高山編の第8部では、盛光寺跡にある歴代肝付氏の供養塔について肝付町文化財保護審議会会長、海ケ倉善通(かいがくら よしかず)さんの解説でお伝えします。
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられていますのでご了承ください。
盛光寺跡の供養塔
この盛光寺跡には、以前、主な供養塔が26基だけ並べてありました。
盛光寺跡に並ぶ石塔群
わたしが平成4年に肝付町立歴史民俗資料館に入ってから、ちょうど20年、掃除をしてきたんですが、2年前にこれを整備をしようということになりました。
26基のほかにも、まだまわりに石がたくさん積んであって、それをきちんと組み合わせて据えられるものは据えていこうと整備を始めました。なかなか難航していて、もう2年以上たちますが、いまだにこんな状態です。
あの大きな墓(供養塔)は8代兼重公の墓です。肝付氏の墓のなかで一番古いもので、それから17代までのものがあるのですが、8代から17代のなかで、12代と16代の墓がありません。
8代兼重公の供養塔(中央)
12代の墓は、本城川のずっと上流のほうの瑞光寺(ずいこうじ)というお寺にあったということで、探しているのですがまだ見つかっていません。
それから16代の兼続(かねつぐ)という人、(島津家から嫁いだ)御南(おなみ)御前のだんなさんですが、この人のお墓は志布志にあります。
後ろのほうには坊さんの墓や五輪塔が30基ほどあって、全部で80基ぐらいあります。
このへんは、神様や仏様にはよく(通称)シババナ(常緑樹の一種)をあげます。それを墓にあげるためには最低80本いるわけですが、シババナというのもどこにでもあるものではないんですね。
川上や本城のポンカンなどのミカン類を植えたところの防風林で、今はもう手入れをせずに放置されているシババナの先の方のいいのをもらってとってきて供えていました。それを20年間続けたわけですが、今振り返ってみると大変だったなあと思います。
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