【きもつき情報局】歴史探訪 第3回 内之浦編1 内之浦の田の神

きもつきの歴史に触れる歴史探訪。ここからは第3回内之浦編がスタートします。
 
内之浦はかつて中国などとの交易の要所として栄えた港町で、倭寇の本拠地のひとつであったともいわれています。
 
内之浦編の第1部では、この地区の田の神像の特徴について説明します。解説は引き続き肝付町文化財保護審議会会長の海ケ倉嘉通(かいがくら よしかず)さんです。
 

 
なお、下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています。
 
内之浦の田の神像の特徴
 
これは田の神様(たのかんさあ)です。
 
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内之浦地区(肝付町北方)の県道561号沿いにある田の神像
 
旧内之浦町のエリアには、この内之浦地区に15体、岸良地区に2体の田の神がまつられています。
 
特徴としては、見ていただけばわかりますように石の屋根がかぶさっています。
 
こういう丁寧な屋根までついた田の神というのは、ここの内之浦だけで、ほかにはほとんどありません。
 
県外など遠方から見学に来られた人が「内之浦の人たちは非常に人情深いですね。丁寧に屋根までつけて田の神をまつっている」などと話されているということです。
 
また、田の神そのものが台座のところで回転するようになっています。これもまた特徴のひとつです。
 
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田の神像の台座部分
 
昔、結(ゆい)といいまして共同で作業をしていたのですが、田植えをするときには田の神像を自分の田んぼのほうにこう向きを変えていたといわれています。
 
都城の影響
 
内之浦で一番古い田の神が、そこに流れている広瀬川の向こうにある、乙田(おった)という集落にあります。それほど大きくない小型の田の神で、(つくられたのは)寛保2年と書いてあります。
 
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乙田の田の神像
 
合併する前は旧高山町の野崎にある、寛保3年につくられたというのが、一番古い田の神だといわれていました。
 
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野崎の田の神像
 
ところが、合併してから乙田の田の神を調べてみましたら、つくられたのがそれより1年早かったんですね。寛保2年、西暦の1742年です。
 
その当時、ここの内之浦を支配していたのは都城の北郷(ほんごう)家でした。
 
ですからこちらでつくった田の神もあると思いますが、都城のほうから移ってきた田の神が多いわけですね。そのため、神職型という神主さんの形をしています。
 
高山地区の古い田の神は53体ほどありますが、多いのは僧型、坊さんの形です。もちろん神職型もなかにはあります。
 
内之浦は都城の影響を受けて神職型がほとんどで、坊さんの形をしたのはほとんどありません。
 
そういうことで伝わった時期によって、形がわかるということですね。
 
また、田の神というのは豊年豊作を祈願して農村の人たちがまつっていたので、だいたい田んぼが見える丘の上や田んぼの畦(あぜ)などにまつられています。
 
それから水神というのもあります。
 
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塚崎(高山地区)にある田の神と一緒にまつられた水神碑
 
水神は用水路のところとか、水が湧き出るところの場所によく建てられていて、水神と田の神と一体にまつられたところも多いです。
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