きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪の第3回内之浦編の第2部では、高屋(たかや)神社や景行天皇の伝説などについて肝付町文化財保護審議会会長、海ケ倉善通(かいがくら よしかず)さんの解説でお伝えします。
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられていますのでご了承ください。
高屋神社と景行天皇
内之浦は、昔は内之浦郷と呼ばれていました。この高屋神社が内之浦郷の一番大事な神社、郷社です。ちなみに高山の郷社は四十九所神社です。
高屋神社の鳥居
内之浦には景行天皇にまつわるいろいろな伝説があります。
この神社は、景行天皇が西暦81年頃に熊襲(くまそ)征伐に来られたとき、国見岳の山頂にあった高屋神社を移されたものだといわれています。
景行天皇は実在した天皇かどうかはわかりません。古事記や日本書紀が書かれたのは西暦700年代になってからですが、それより何百年も前のことが書いてあります。
景行天皇は12代です。それ以前の天皇のこともいろいろと書かれていますが、それが実在した天皇であるかというのはわかりません。
だいたい5世紀ごろからあとの天皇のことはわかるのですが、それ以前のことは創作されたものが多いのではないかと思います。
たとえば、年代を見てみますと、百年以上長生きされたと書かれている天皇が多いのですね。普通は30年ぐらい、短い時は5、6年で代替わりしています。ですから平均すると一代が25年あるかないかなんですね。
最初、西暦712年に古事記が書かれて、そのあとに日本書紀が720年に書かれていますので、それからあとはだいたい合っていると思います。
古事記を書いたのは太安万侶(おおのやすまろ)という人です。昔のことをずっと覚えて口伝えで伝えていた人のいっていることを太安万侶が記録したということになっています。
それ以前の記録も、旧辞(きゅうじ)などの古い書き物があったということですが現存していません。
ですから、景行天皇の熊襲征伐についても、ここに来られたのかどうか、わかっていないのですが、実際に来られたように書いてあります。
景行天皇が船団で何隻の船、何人だったかわかりませんが火崎のちょっと先の方にある川原瀬(かわらぜ)、「お着が瀬(おつっがせ)」とも呼ばれるところにお着きになって、そこから山を越えて、小田(こだ)の楠のところに一泊されたといわれています。
火崎周辺の海岸
それからそこに高い丘、叶岳(かのうだけ)があります。「みねがおか(峯岡)」「みねんおか」とも呼ばれていますが、そこにのぼられて、宮を建てるところはないかということで見渡されたところがここです。
この神社はもちろんなかったわけですから、この一帯に宮を建てられて6年間おられたという伝説があります。そのときに国見山の頂上にあった神社をここに移されたというのが、この神社の由来になっています。
ここが高屋神社の本殿ですが、昔はいろいろな宝物などがしまってありました。火災に何回かあって燃えてしまって残っていませんけれども、この本殿はだいぶ古いつくりですね。おそらく江戸時代につくられたのではないかと思います。
高屋神社の本殿
そして前のほうはコンクリートでつくってありますが、拝殿、拝むところです。境内に小さい祠がいくつかありますが、これは周辺にあった神社をここに移したものです。
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ここの神社には天孫降臨のニニギノミコト、その子どものヒコホホデミノミコト、(孫の)ウガヤフキアエズノミコトなどのご神体がまつられているということです。
昔は山(国見岳)の上にあったところにお参りに行っていました。この神社ができてからは、ここから拝むようになりました。このように離れたところからお祈りする場所を遥拝所といいます。
ここから向こうを向いてお祈りをしていた名残でこの水鉢が置いてあります。
遥拝所の水鉢
天子山
景行天皇が宮を建てられた場所の中心が、この天子山だということです。
この石の囲いのことを籬(まがき)といいます。以前は竹垣だったと(記録に)書いてありますが、明治ぐらいになって石で囲いをつくられたということです。
そして真ん中にかめ、焼き物の大きな壺が据えられていましたが、戦後に盗掘されて今はもうありません。
かつてかめが置かれていた場所
かめは2つあったと記録されていて、もうひとつのものは周りの木が倒れて割れてしまったと(記録に)あります。
そしてひとつだけはここにあったのですが、戦後、マニアの人が持って行ってしまったということが(記録に)書いてあります。
石のふたがありますが、この下にあったのですね。
景行天皇が宮を建てられていた場所だということで、景行天皇の伝説が内之浦にはたくさん残っています。
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