きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪の第3回内之浦編の第4部では、内之浦小学校近くにある松林の中の砲台跡について肝付町文化財保護審議会会長、海ケ倉善通(かいがくら よしかず)さんの解説でお伝えします。
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられていますのでご了承ください。
海岸に設けられた砲台
この松林の中には砲台の跡がありました。
内之浦小学校近くの松林で解説する海ケ倉さん
江戸時代の終わり、島津斉彬の時代に外国から攻めてくるのを防ぐために県内の海岸の 42カ所に砲台をつくったのですが、そのうちの一カ所です。
この近くでは、ほかに志布志と根占にあります。根占の砲台跡には大砲の模型をつくって据えてあります。
ここの砲台をつくるために、藩内の加世田や川辺、国分あたりから82軒の武家を内之浦に移動・移住させています。
もともと内之浦を支配していた武士がいたのですが、そのほかに砲台をつくるために移住させました。その家族までいれると相当な人数です。
砲台があったところは、台場と呼ばれます。
ここの砲台は大きいのやら小さいのやら4門あったと(記録に)書いてあります。1門に対して14人から20人、撃つ人数が要ったそうです。
ですから82人も外から移してきたわけです。もちろん内之浦にいた人もなかには入っていると思いますが、移されたのが82軒ということです。
ここは衆力山と呼ばれるところです。衆力、大衆の衆ですね。
もともとはこのような松林はなかったのですが、山から松の小さいのを持ってきて植えたんですよ。大衆の力で松を移植したので、衆力山と呼ばれています。
ずっと向こうに川がありますが、そこの海岸線を入った河口のところからこの辺も全部松を移植したところです。
質問:大砲は(実際に)撃たれたことはあるんですか。
答え:大砲を撃った記録はないんですが 撃つ練習をしたということですから実際撃ったのでしょう。
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