都市部ではツーキニスト(自転車で通勤する人)が増えたこともあり、自転車が一つのブームになっていますが、肝付町のような田舎町では車が一人一台の時代に入り、昔に比べると自転車を見かけることがだいぶ少なくなりました。
自転車人口の減少にともない、自転車屋さんもめっきり少なくなり、以前十数軒あったのが今では数軒を残すのみとなっています。
今回の「われら、きもつき人」では、そんな今では貴重な存在といえる町の自転車屋さん、田中弘見さんを紹介したいと思います。
田中さん(右)と奥さんの洋子さん
子どものころからの夢
肝付町高山地区の高山中学校の近くで自転車店を営む田中さんが旧高山町で開業したのは、今から50年ほど前の22、3歳の時で、その当時は車を持っている人もそれほどおらず、自転車が文字通り花形だったといいます。
それから長い歳月を経て、自転車は当時の輝きを失ってしまったとはいえ、田中さんは、71歳となった今現在も自転車修理に携わり、店の看板を守り続けています。
現在の自転車店
そんな田中さんが、自転車屋を目指し始めたのは小学生の時。「その当時は、自転車を持っている人はあまりいませんでした。私は川上小学校に通っていたのですが、そこの先生が自転車で通勤してきたのです。それがかっこよくてねぇ。自転車への憧れが強くなりました。それからですね」と懐かしそうに当時のことを話してくれました。
中学時代は、両親を亡くしたため、隣町に嫁いでいた姉夫婦のところで生活をしていました。肩身の狭い思いをして、日々の生活が大変だったそうです。それでも小学生の頃からの思いは変わらず、将来の夢は自転車屋さん。その当時は、自転車屋さんになりたいというような人は稀で、よく友達から冷やかされていたそうです。
苦しかった修業時代
そして、中学卒業と同時に宮崎県小林市の自転車店に住み込みで修業をすることになりました。夢の実現へ向けて第一歩を踏み出したのです。「すでに私の実家はありませんでしたので、小林市に向かうときは、もう帰る場所はないのだぞ、と自分に言い聞かせて出発しました」と、当時を振り返ります。
下積み時代は親方と兄弟子から厳しく指導を受けたそうです。ほかに兄弟弟子も何人かいたのですが、その厳しさから次々に辞めていき、結局は田中さんだけが残りました。
はじめのうちは、新車には触らせてもらえず、未舗装の道を走って汚れた自転車しか扱わせてもらえなかったそうです。それでも、いつかは自分のお客さんを獲得して、新車を触りたいという強い思いを持って、修業に明け暮れました。
プライヤーを使っての自転車の点検
そんな努力の甲斐あって、田中さんは修業を通してさまざまな技能を身につけていったのですが、その中のひとつに今では使われることのなくなった面白い技能があります。それは、修理の自転車を預かりに行く際の運搬方法です。自転車を片手で運転しながら、空いたもう片方の手で修理対象の自転車のハンドルを操作し、2台が並んで走るようなかたちで運んでいたのだそうです。自動車がまだ普及していなかった当時の自転車店ならではの技能です。
ついに一国一城の主に
そのように夢の実現へ向け、日々精進していた田中さんですが、時には望郷の念にかられることもありました。厳しさから何度も辞めたいと思ったこともあったそうで、そんな時は、自室の窓から故郷の方角を見つめて、涙を流したといいます。
「それでも頑張れたのは、もうオレには帰る場所はない、という覚悟があったからです」
修業を始めて3、4年経った頃、一通りの技能を身につけた田中さんに転機が訪れます。一人前の証ともいうべき自転車組立整備士の資格試験に挑戦し、見事合格したのです。
それからは、指名の顧客がつくなどして、給料が上がり、憧れだった新車の整備も任せられるようになりました。そんな毎日を田中さんは嬉しそうに話してくれます。
「顧客に可愛がられて、食事をご馳走になったり、映画のチケットをもらったりしました。下積み時代は映画を見に行くような余裕はなかったので、とても嬉しかったですね。この頃、今でも続けている、社交ダンスを覚えました」
そして、親方の紹介で最愛の妻、洋子さんと結婚します。結婚を機に長年勤めた自転車店を退社し、田中さんの故郷で自分の店を出します。苦節8年、ついに子どもの頃からの夢が実現しました。
はじめのうちは、町の中心部から少し離れた場所に店を構え、休む間もなく働いたといいます。そこで10年ほど営業し、よりよい立地条件を求めて、現在の店がある高山中学校のそばに移転しました。その当時は、国鉄の駅のホームが近くにあって、学生で賑わっていたそうです。
移転時の自転車店
「あの頃は、月に何十台と自転車が売れていました。出張修理は、町内すべてをカバーし、走り回っていましたよ。私にはこれしかないのでとにかく必死でした」
オレにはこれしかない
時代がめぐり、自動車の普及や大手ホームセンターなどの進出で、徐々に販売台数が減っていき、現在は、パンクやブレーキ交換などの修理がメインとなっていますが、それでも大好きな自転車に携わっていることには変わりありません。
「主人から自転車をとったらダメなのです。触っているときは、顔が生き生きとしているのですよ。この仕事が本当に好きなのでしょうね」と、奥さんの洋子さんが話すとおり、実際に工具を手にしたときの田中さんは、実にいきいきとした表情で仕事に取り組んでいます。
自転車の整備をする田中さん
田中さんには、千葉県で会社勤めをしている息子さんがいるのですが、店の看板は自分の代でたたむのだそうです。自転車だけでやっていける時代ではないと言いつつも、「本当は継いでもらいたいけど、無理強いはできません。こればっかりはしょうがないですよ」と、寂しげな表情を浮かべますが、すぐに表情を元に返して「これが生きがいといってもいいですね。体が動くうちは、まだまだ頑張りますよ」と、笑顔で話します。
実直に努力を重ねて子どもの頃からの夢を実現させた田中さんの取材を通して「辛い思いをしても、最期まであきらめないで頑張り抜く。そうしたら夢は叶いますよ」というメッセージと勇気をもらったように感じました。
一時期病気で体調を崩していたという田中さんですが、これからも貴重な町の自転車屋さんとして健康に気をつけて、できるだけ長く大好きな今の仕事を続けてほしいと思います。
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