きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪。ここからは第5回都城・末吉編がスタートします。
島津氏とのかかわりの深い宮崎県都城市周辺は、戦国期には島津氏や肝付氏、伊東氏などの勢力争いの舞台となりました。
都城・末吉編の第1部では、都城市にある島津氏の御所があったといわれる場所や島津氏の歴史、また島津氏とのかかわりから浮かび上がってくる肝付氏の歴史を紹介します。解説は引き続き肝付町文化財保護審議会会長の海ケ倉嘉通(かいがくら よしかず)さんです。
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられていますのでご了承ください。
島津の始まり
ここは祝吉(いわよし)御所という、島津家の最初の御所があったところだといわれています。広い範囲で、さっき行きました早水神社よりまだずっと西の方まで祝吉という地域です。
祝吉御所の記念碑
ここに島津家が最初の御所を建てたといわれていますけれども、この周りの発掘調査をしても、ほとんどなにも出てきていません。御所があった跡だったら、千年ぐらい前ですから柱穴とかそういうものがあるはずなのですが。ですから、御所跡だということで記念碑を建てて整地してありますが、どうもここではないような気がします。
向こうの三股の山の向こうのほうに安久というところがあって、そこに最初入ってきたのではないかといわれております。梅北から近い場所です。
祝吉御所跡の説明板
もともと島津という土地はないんですね。宮崎から鹿児島は官道といわれる道路(現在の国道10号)でつながっていたのですが、その都城のなかに島津駅というのがあったと昔の記録のなかに書いてあります。どこにあったかはわかっていません。
その島津駅がもとで、島津という姓になりました。島津家は、もともとは惟宗(これむね)という姓で、源頼朝に呼ばれて京都から鎌倉へいったといわれています。また一説には頼朝の子どもだともいわれています。
最初の人(忠久)はこの都城に入ってきていません。島津忠久の代理、地頭代の本田氏が出水に来て城をつくった、その城跡は残っていますが、忠久はおそらく都城には来ていないと思います。頼朝の側近ですから頼朝のそばにいて政治をしていたんですね。その代理が出水のほうに入ってきてこの辺を治めました。
このときに頼朝が惟宗忠久に治めなさいという地頭の命令を下していて、きちんとした証書が残っています。
肝付氏の歴史
この忠久が鎌倉で地頭になったときの肝付の領主は2代兼経(かねつね)だったと書いてあります。一方、肝付氏の初代は兼俊(かねとし)ですが、兼俊がどこにいたかということは全然わかりません。
これまで、歴代の肝付氏の記録には百五、六十年空白がありました。それを埋める史料というのがある程度、断片的にですが出てきています。
今までの歴史書には、平季基(たいらのすえもと)の婿になったのが肝付の伴兼貞(※初代・肝付兼俊の父親)という人で、季基には息子がいなかったから娘の婿にこの兼貞を迎えたのだということが書いてありますが、どうもそうではないみたいです。
季基に息子がいたんですね、兼輔(かねすけ)という人が。その人は佐賀の神崎荘というところへこちらから移っていきました。そしてその代わりとして、兼輔の娘の婿になったのが兼貞だろうといわれています。
そうすると、ある程度、年代がわかってきます。
今まで肝付氏の最初の年代を特定するのは、安和2年、西暦969年に鹿児島に来たというのがもとになっているのですが、そうではなく、その4代前の人が京都から役人として鹿児島に来ているんですね。
それがわかって来ましたので、確定したものではないですけれども、空白部分がある程度埋められるようになってきました。そうなると、今まで郷土史なんかに書いてあるのは全
部ひっくり返ってしまうということになります
部ひっくり返ってしまうということになります
島津家の場合は、ここの島津の荘を忠久にあげるという証状が残っていますので間違いないんですね。そして、その後の代の記録も残っています。肝付氏は島津に敗れてしまったから、その史料がほとんどもうなくなってしまっています。
ちょうど1580年に、島津家に従った兼道(兼護とも表記)が阿多(南さつま市金峰町)に移されたとき、飫肥の方、伊東氏から嫁いで来ていた奥方が伊東氏にかえされたのですが、その時、史料を持っていったという記録もあります。
その史料を今の飫肥の鵜戸さんといわれる鵜戸神宮に預けてあるということが(記録に)書いてあったものですから、鵜戸神宮に調べに行ったんですがありませんでした。どうなったか行方不明です。それが出てくれば肝付氏の歴史の大部分がわかってくると思います。
今わかっているのは江戸時代に書かれた記録のものです。鹿屋玄兼(かのや くろかね)といって、屋を治めていた鹿屋氏の子孫が書いたものがもとになっているんですね。かなりあとの時代に書かれたものですから、どこまでが正しいのかわかりません。
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