【きもつき情報局】歴史探訪 第5回 都城・末吉編2 肝付竹友の墓

きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪。第5回都城・末吉編の第2部では、肝付氏の勢力弱体化の原因となったといわれる国合原(くにあいばる)の合戦で討ち死にした肝付竹友の墓について肝付町文化財保護審議会会長、海ケ倉善通(かいがくら よしかず)さんの解説でお伝えします。
 


 
なお、下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています。
 
国合原の戦
 
ここにあるのは肝付竹友(きもつき たけとも)という人の墓です。この国合原の合戦の総大将で、志布志の地頭でした。
 
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竹友の墓と供養塔
 
そして肝付竹友となっていますが、伊集院竹友とも(記録には)書いてありますから、おそらく伊集院家から肝付家に養子に来ている人だろうと思います。
 
そのときの戦の中心になっているのは志布志です。それから串間、松山と、この一帯の人たちが参戦しています。もちろん鹿屋の辺りからも来ています。
 
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肝付竹友の墓の説明板
 
この戦があったのは天正元年です。(肝付氏と島津氏の最後の戦いの場となった)牛根城が落ちたのが天正2年ですが、1年前にここで大きな戦をしてたくさん戦死者を出したために肝付氏の勢力がかなり弱くなってしまったということです。
 
その前にも月野のまだ向こうのほうに投谷八幡という神社があって住吉原(すみよしばる)というところで戦をしています。
 
こちらも通称で住吉原といいますので、よく間違えるのですが、向こうのほうが住吉原で、こちらは国合原です。
 
どちらの戦でも北郷(ほんごう)氏(都城島津氏)と戦をしています。
 
向こうの住吉原の場合は肝付勢が勝っているのですが、ここではだいぶ負けてしまって勢力がかなり弱くなったと言われています。
 
どれがその竹友の墓かはっきりわかりませんが、あの地蔵さんみたいなものがそうだと思います。
 
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肝付竹友の墓(推定)
 
竹友が戦死したのはここではありません。馬で松山の方におそらく逃げていったんでしょう。松山から末吉の方に行く道路があって、それを少し行ったところに新橋というところがあります。そこのぬかるんだ田んぼに北郷氏が(田んぼと分からないように)砂をまいていて、竹友が馬をその田んぼに乗り入れたところ、ぬかるんで馬が動けなくなって、そこで殺されたんだという話が残っています。
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