きもつきの歴史をたどる歴史探訪。前回に引き続き、高山城跡について紹介します。
高山城の敷地は広範囲にわたっており、山の麓付近には馬場や家臣の住居があったといわれています。
解説は引き続き肝付町観光協会ガイド部会部長で、肝付町生涯教育課が主催する講座「ふるさと探訪」の講師を平成26年度から務める福谷平(ふくたに たいら)さんです。
なお、下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています。
馬乗馬場と士(さむらい)小路
ここに道路のようなものが残っていますけど、これは馬乗馬場といわれています。古地図を見ると馬乗馬場が2つあってここと、もうひとつあったらしいです。
馬乗馬場の跡
以前はこの馬乗馬場跡にプレートが立ててありました。自分たちが小さい頃はまだちょっと広かったようなんですが、だいぶ狭まってきているような感じがしています。
ここで乗馬の練習や流鏑馬などをしていたのではないでしょうか。
今も(伝統行事として四十九所神社で)流鏑馬をやっていますが、鎌倉時代は非常に流鏑馬が盛んで、三通りくらい種類があったそうです。
四十九所神社でしている的を射る流鏑馬、扇とか笠を立てて射るもの、それから犬を放して馬上から犬を目掛けて矢を射るものですね。もちろんその犬を射るときは、先の方に犬を傷つけないような処置をして射っていたということです。
この周辺は自分たちが小さいころは田んぼで、最初、高山城跡が国の文化財指定に入って町が買い上げるときに、三の丸という形で買い上げていました。
高山城周辺の地図
それに加えて、平成14年だったですかね、町のほうで発掘調査をしたところ、昔の柱の跡や陶器の破片がたくさん出て来たところがあって、やはり城の一角だということで、追加で国から補助をもらって新たに買収しました。
ここに家臣たちが住んでいて、いわゆる士(さむらい)小路といわれていました。
柱の跡などが見つかった士小路跡
高山城の面積は当初49町といわれて、そしてあとで追加したのが7町7反くらいですので、50町を超えているわけです。
こんなに荒れているわけですけど城の一角ということで買収してあります。
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