【きもつき情報局】子孫が語る宝暦治水~肝付歴史茶話会

肝付町高山麓の日高邸で5月17日、肝付歴史茶話会が開かれました。
 
同会は日高家の武家門修復をきっかけに、町の歴史について話し合う場を設けようと古瀬徹さんとマルさん(旧姓:日高)夫妻の呼びかけで昨年5月に始まったものです。
 
6回目となる今回は鹿児島県立歴史資料センター黎明館(鹿児島市)で5月20日から7月27日に開催される「宝暦治水と平田靱負-薩摩藩家老の系譜-」にあわせて、平田靱負の子孫にあたる平田好二さんが宝暦治水にまつわる史実と創作について発表しました。
 
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宝暦治水について解説する平田さん(中央)
 
宝暦治水は江戸時代中期(宝暦4年~5年・1754年~1755年)に幕府の命によって、岐阜県の木曽川、揖斐(いび)川、長良川流域で薩摩藩が行った治水工事で、それにちなんで現在でも鹿児島県と岐阜県では交流事業が行われています。
 
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平田靱負の像(鹿児島市・平田公園)
 
平田さんは「工事の際に幕府に抗議して多くの人が自害したといわれていますが、実際のところ、死因はわかっていません」などと宝暦治水に関して記録等で明らかになっている史実は少ないことを説明しました。
 
また、明治時代に岐阜県で新たな治水に向けての機運が高まり、薩摩藩の犠牲者を追悼・顕彰する活動が盛り上がったことや大正時代に宝暦治水を題材とした人形浄瑠璃の上演が盛んに行われたこと、さらに直木賞を受賞した「孤愁の岸」(著・杉本苑子)の影響などによって創作された話が史実と混同されるようになったことを指摘しました。
 
さらに、平田靫負の切腹説についても、病死の可能性が高いことや京都で埋葬されたため鹿児島には遺髪が届けられたこと、鹿児島に建てられた墓は道路の拡張工事をきっかけに肝付町にいた子孫のもとへ移されることになったことなどを解説しました。
 
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肝付町にある平田家の墓
 
今回の茶話会では宝暦治水のほかにも、肝付氏が高山に居住し始めた時期などについて活発に意見が交わされました。
 
同会を主催する古瀬徹さんは「主要テーマを設定して、1年間続けることができてよかったです。いろいろな人が集まって発言し、勉強することに意味があると思います」と話しました。
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