【きもつき情報局】歴史探訪 第6回 番外編2 肝付氏の居城 高山城③

きもつきの歴史をたどる歴史探訪。前回に引き続き、高山城跡について紹介します。
 
解説は引き続き肝付町観光協会ガイド部会部長で、肝付町生涯教育課が主催する講座「ふるさと探訪」の講師を平成26年度から務める福谷平(ふくたに たいら)さんです。
 

 
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています。
 
湯沸場跡
 
ここは湯沸場跡です。当時はこんなに木もなくて、見晴らしがきいたと思います。敵を監視したり、すぐ下にある馬乗り馬場で馬乗りの稽古をしたり、ここでお茶を飲んだりしていたのではないでしょうか。
 
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高山城の湯沸場跡
 
おそらくずっと当時からそのままの形で残っています。比較的近年まですすがついていたので、当時のままのすすが残っているという人もいました。
 
しかし、地域の古老たちに聞いてみると昭和20年の終戦後、外地からの引揚者、傷痍軍人とか、「勧進どん」といって橋の下に住んでいたりお宮のお堂に住んでいたりする人たち、お米をお茶碗一杯とか湯のみ一杯とかいってもらいに来ていたような人たちがここにも住んでいて煮炊きをしたらしくて、そのすすがついていたということでした。もう今は消えてありません。
 
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高山城周辺の地図
 
周辺住民と高山城
 
大半は農民も戦に行くわけですから、米の収穫時期は戦争をしないでおこうと取り決めて、するときは農閑期とかにあったらしいです。米が一番の主食ですから。
 
また、地区の農民も一旦急あればみんなこの城に逃げこんでいました。自分たちの命を守ってくれる避難所だったので、築城のときも強制ではなく築城には加勢したそうです。
 
肝付氏を中心としたいわゆる支族とか、農民たちが援護をしていたと思います。
 
肝付氏が島津氏に下ったということについて、ある学者の人たちは、肝付さんはあんまり人がよかったからだといいます。身内を丁寧に扱って、温厚にやってきたと。
 
一方、島津さんは、こういうことをいうと悪いのですけど、だめとなれば潰して、本家争い、身内同士の争いをしていました。いわゆる骨肉の争いですよ。
 
そういうことをして島津氏は幕末までずっと島津を名乗ってつないできたわけです。戦国時代から幕末まで通じてずっと家をつないできた一族は全国でも島津さんぐらいじゃないでしょうか。
 
その裏には、島津を残すためにそういう争いがあったわけです。
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