【きもつき情報局】歴史探訪 第6回 番外編2 肝付氏の居城高山城④

きもつきの歴史をたどる歴史探訪。前回に引き続き、高山城跡について紹介します。
 
解説は引き続き肝付町観光協会ガイド部会部長で、肝付町生涯教育課が主催する講座「ふるさと探訪」の講師を平成26年度から務める福谷平(ふくたに たいら)さんです。
 

 
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています。
 
大来目(おおくめ)神社と三百三十年祭
 
ここは大来目神社です。古事記によると、神武天皇が東征されるときに肝付氏の祖先の大伴氏と大来目氏は一緒に行動しています。その関係で肝付氏は大来目氏を城の鎮め神、守り神としてご神体にしてここに神社を建てたといわれています。
 
大来目神社三百三十年祭というのがあって、この石碑に祭りをしたという、いわゆる由緒が書いてあります。
 
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大来目神社三百三十年祭の記念碑
 
この石を自分たちでお金を出してみんなでつくったわけですから、裏にはその戸主の名前が書いてあります。
 
肝付氏が島津氏に下るのが天正2年(1574年)です。
 
ここに住んでいた本城の人たちというのは、330年経ってもこういう記念碑を建てるわけですから、よほど肝付氏に対して崇拝といいますか、好意を持っていたと思います。
 
ここに「落城より」と書いてありますが、高山城は落城していません。
 
永正2年(1574年)にここがなくなります。その140年後、1714年、正徳4年に肝付氏の最初の兼行より後の18名、兼俊から兼道(兼護)までを全部ここにまつったと書いてあります。
 
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大来目神社の石灯
 
上に行けば正徳4年にそういうことをしたと書いた石の灯ろうのようなものが建っています。
 
それから三百三十年祭というのを明治37年、西暦では1904年にしています。
 
ここに「追念シ」と書いてありますが、非常に意味深い重い言葉だと思います。
 
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三百三十年祭記念碑に刻まれた由来(一部)
肝付氏を追念し、三百三十年祭にあたってみんなでこれを建てたということが書いてあります。
 
ちょうど明治37年の2月から日露戦争がありました。そのときにここの本城からも16名出征しています。
 
その人たちの名前がそちらに書いてあります。
 
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石碑に刻まれた戸主の名前(一部)
 
明治37年ですから、当時は重機もなく、どうやって運んだかわかりませんけれど、こういうのを建てたわけです。
 
もう阿多(南さつま市)に移されてから330年以上経って、関係もなにもないのに、当時を偲んで本城の人たちがこういうのを建てるというのはいかに肝付さんを慕っていたかという表れだと思います。
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