【きもつき情報局】戦時中の高山について語る~高山歴史研究会

地域の歴史について語り合う、第2回「高山歴史研究会」が2月21日、肝付町立歴史民俗資料館で開かれ、町内外の歴史愛好家13名が参加しました。
 
戦後70年たって、ようやく太平洋戦争時の体験が語られるようになったこともあり、今回は「昭和20年頃の高山(太平洋戦争のこと)」をテーマに、同研究会会長の海ケ倉嘉通(かいがくら よしかず)さんが自身の体験談を中心に当時の高山について話しました。ちなみに、海ケ倉さんは終戦を迎えたとき小学6年生でした。
 
海ケ倉さんによると、戦時中、米軍の飛行機は志布志湾から肝属川をさかのぼって鹿屋へ向かうルートをとっており、学校に登校しても空襲警報が鳴ると家に帰され、また兵隊が学校にいて校庭で訓練を行っていて、空襲を受けることもあり、学習できるような環境ではなかったそうです。
 
終戦近く、昭和20年6月17日にあった鹿児島市の大規模な空襲のときには、高山からも西の空が真っ赤に明るくなって見えたといいます。
 
また、志布志湾に上陸する可能性があった、米軍のオリンピック作戦に備えて、つくられた砲台跡などが海蔵地区に残っていることなども紹介されました。
 
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海蔵地区に残る戦時中の施設跡
 
さらに、参加者からは鹿屋の特攻隊の滑走路をつくるときは高山女学校の生徒も動員されたことや、現在、その滑走路跡を探していて一本は見つかっていることなどが紹介され、情報提供が呼びかけられました。
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