吟詠に合わせて刀や扇を持って舞う剣舞。
その剣舞の宗家と聞けば、おそらく多くの人が、いかめしい男性を想像するのではないでしょうか。
しかし、剣舞一刀流三代目宗家の松永刀雲さん(83歳)は、いかめしくもなければ、男性でもありません。
小柄な体の、にこやかな老婦人です。
とはいえ、袴をつけ、模擬刀を手にぴんと背筋を伸ばしてよどみなく舞う姿は凛々しく、とても80歳を越えているとは思えないほどです。
指導する松永さん
松永さんは神奈川県で暮らしていますが、昨年、5月に高山地区で「一刀流おおすみの会」が立ち上げられてから、その指導のために毎月月末の3~4日、肝付町を訪れています。
これまでにも肝付町内で、神奈川県の高校生たちと一緒に吟詠剣詩舞の発表会を開いたり、高山高校の文化祭で剣舞を披露したりしてきました。
2014年2月に行われた神奈川県の高校生らによる吟詠剣詩舞発表
それというのも、松永さんは戦時中、串良に住んでいた父方の祖父母のもとに疎開し、高山高校の前身である高山高等女学校に通っていた縁があるからです。
ちなみに、女学校卒業後は、まだ女性の大学進学が珍しいなか、鹿児島大学の二期生として入学しました。「男女平等」がうたわれるようになった戦後とはいえ、当時はまだまだ浸透しておらず、「女が大学に行くとは何事か」と祖父から怒られたそうです。
「家で受験勉強できないから『田んぼに草とりに行って来ます』といって家を出て外で勉強していたんですよ」と当時のエピソードを笑いながら教えてくれました。
松永さんは宗家の娘で師範であった母親から剣舞の手ほどきを受けていましたが、あらためて剣舞に取り組むようになったのは昭和40年頃からだそうです。
中学校教員として勤めながら、二代目の道場へ通い、部活動で剣舞を教え、昭和56年に三代目宗家となってからも退職までは休日のみ道場で指導していたといいます。
練習に取り組む一刀流おおすみの会のメンバー
そんな松永さんがきもつきの地に剣舞を広めたいと通っている理由のひとつは、高山に自顕流があるからです。
「高山は神武天皇の生まれ育った土地であり、天皇家のふるさとともいえます。その天皇家を守るための剣が、肝付氏の伝えてきた自顕流です。そのことを地元の人に知ってもらって、肝付のひとたちが日本をつくったのだと誇りに思ってもらいたいのです」
そのように考えている松永さんは剣舞にも自顕流を取り入れています。
「詩吟をベースに、詩の心をあらわすのが剣舞ですから、鹿児島の詩吟を舞うときは自顕流を使います」
西南戦争の際につくられた詩吟「兵児(へこ)の謡(うた)」に合わせた舞
剣舞は戦後の武道禁止令が解除された昭和27年以降、昭和40年代から50年代くらいまでは鹿児島でも活動が盛んだったそうですが、現在ではほとんど途絶えてしまっています。
「鹿児島で剣舞を、このきもつきの地からよみがえらせたい」と同時に「詩吟、剣舞という日本の文化ともに自顕流というこの土地の伝統文化や歴史も伝えて残していきたい」――そんな願いを込めて、松永さんはきもつきでの指導を続けています。
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