先日、肝付町高山地区で行われた「日米合同デザイン・ワークショップ@高山」では、日米の学生たちが調査する現場にも足を運びました。
このときの調査の中心となったのは、藩政時代の商業地区であった野町、現在の本町にある「油屋」の建物です。
この建物は表が店、奥が居住空間になっている町家で、学生とともに調査をした鹿児島大学の教授によると、築200年以上で、柱がしっかりしていてゆがみもなく、きれいに残っている方なのだそうです。
油屋前に集まった学生ら
これまで表からしか見たことはなかったのですが、今回、中に初めて入りました。
通りから奥にある庭へ抜ける土間に、田の字型に並ぶ八畳間があり、土間の奥の台所にはかまどが、その奥の庭には蔵もありました。ほとんど昔のままの形に残っていて、実に味のある建物です。
昔の道具も残っていて、シュロの皮(繊維)でつくられたのではないかと思われる蓑も柱に吊るされていました。
牛や馬が通れるくらいの幅がある土間
かまどのある台所
土間の上の吊り棚
シュロの皮でつくられた蓑(?)
通りに面する部分は、今は雨戸で覆われて見えませんが、蔀戸(しとみど)や格子戸になっていると調査の様子を見に来た地域の方たちから聞きました。子供の頃に蔀戸をバタバタ動かして遊んでいたそうです。
伝統行事の「本町八月踊」のときには、この建物の前の路上に櫓が組まれ、その上で三味線や胡弓などが演奏されますが、昔はこの油屋の格子戸の内側でも演奏が行われていたとも教えてもらいました(※正確には、格子戸の内側で練習などを行っていたということです)。
また、昭和40年代初めくらいまで、座敷いっぱいに服を並べて、売り場としても使われていたという話も聞きました。集会所のような役割も果たしていたようで、地域のみなさんが「通りの中心的存在だった」と懐かしみながら思い出話を語っていました。
日米合同ワークショップの発表会では、この建物や野町の街並みのデザインについて学生たちがさまざまな案を提案してくれました。
そのなかで学生の一人が「古いものを(新しく)建てることはできない」と言いましたが、地域のみなさんの思い入れがあるこの建物を、今後も壊すことなく、うまく活用することができれば素晴らしいことだと思います。
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