第4回「高山歴史研究会」が7月18日、肝付町文化センターで開催され、町内外の歴史愛好家12名が参加しました。
前回に引き続き、平田好二さんが四十九所神社の移転にからめて、肝付氏の歴史について話しました。
四十九所神社は永正11年(1514年)、現在地に建て替えられたことが、境内の石灯籠に刻まれており、はっきりとわかっています。
江戸時代に描かれた三国名勝図会にある四十九所神社
地域の中心となる神社が同じ場所に建て替えられることなく、移転した理由としては、戦乱が原因と推定され、永正3年(1506年)の戦いが該当するのではないかと仮説が立てられました。
永正3年の戦いは、島津忠昌が柳井谷に陣を構え、肝付氏を攻めた長期戦で、今も合戦田など地名にも残る激しい戦いでした。
神社がもともとあった場所については、古地図をもとに推定される場所(字名:柿薗)が提示されました。
絵を手に説明する平田さん
古来より神社には、建物の維持に必要な柿渋を採取するための柿林があったそうで、それが字名に残っているのではないかということです。
流鏑馬が行われていたと考えられる一直線の参道(現在は一部のみ)も示され、参加者は興味深そうに地図を確認していました。
地図を確認する参加者
また、中世においては城には住まないのが一般的であり、高山城を本城とした場合、普段肝付氏本家が暮らしていた居城(館)は大脇(御幣薗)城ではないかとの推察も提示されました。
平田さんは「肝付氏の歴史を解明するためにも、大脇城の発掘調査をぜひしてほしいですね」と話していました。
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