昭和37年(1962年)に設立され、400機を超えるロケットと日本初の人工衛星「おおすみ」や小惑星探査機「はやぶさ」などの人工衛星・探査機を打ち上げてきた内之浦宇宙空間観測所。
その観測所がある内之浦は、アジやタイ、イセエビ、時にはクロマグロなど一年を通してさまざまな種類の魚介類が水揚げされる、漁業が盛んな港町です。
そんな町の中心部に、はっと目を引くオレンジ屋根のレトロな古民家があります。その家の主は昭和9年生まれ、今年81歳になった橋本雅子さんです。
オレンジ屋根の古民家と橋本さん
橋本さんは、内之浦宇宙空間観測所の建設時に道路づくりの奉仕作業や起工式での炊き出しなど宇宙開発を支えた内之浦の婦人会で、書記や副会長、会長職などを歴任しました。入会した当時の会長、田中キミさんのもと、長年にわたり、さまざまな取り組みに協力してきたそうです。
婦人会による土木作業現場を慰問する糸川博士
婦人会の協力態勢はすばらしいもので、実験場の職員や研究者からは、内之浦といえば婦人会と言われるほどだったといいます。
昭和36年。ロケット発射場建設が正式に発表され、内之浦は明るいニュースに沸き立ちました。27歳になっていた橋本さんは、当時、女性では珍しかった自動車の運転免許を取得していたことから、実験班の便宜をはかるために設置された売店への食材や飲み物の運搬を担当していました。時には、その売店で売り子もしていたそうです。
当時の様子を話す橋本さん
「会長の田中キミさんの強烈なリーダーシップがあったからこそ、婦人会総出で活動できたのだと思います」と当時を振り返ります。
以後、町の運動会や夏祭りなどさまざまなイベントに実験班が参加して、町民との親睦を深めていきました。その甲斐あって今では「世界でも、内之浦ほど住民との交流が深い発射基地はない」と称されるようになりました。
橋本さん宅で行われた実験班メンバーとの交流会
昭和41年、日本初の人工衛星打ち上げが連続して失敗し、世論の批判を浴びるなか、婦人会は次の成功を信じて、千羽鶴やお宮参りをして支えていました。その祈りが通じたのか、昭和45年に5号機の打ち上げが成功しました。
「記者会見の場で衛星の名前を『おおすみ』とすると発表されたのを聞いた田中キミさんが『ありがとうございます。バンザーイ』と叫んだことを昨日のことのように思い出します」
おおすみ搭載ロケットの打ち上げ成功を祈り千羽鶴を贈呈する婦人会
千羽鶴の伝統は橋本さんが会長になってからも受け継がれ、衛星を搭載したロケットの打ち上げ時には、欠かさず届けたそうです。
婦人会を引退した現在もそれは続いていて、平成25年の新型ロケット「イプシロン」打ち上げ時にも贈呈しました。
そんな橋本さんの暮らす家には、今でも実験場の職員や研究者が集い、定期的に宴が開かれ、親交が続いています。
また、橋本さんは地元の学校から依頼を受けて当時の思い出話などを子どもたちに語り聞かせる活動もしています。
「親からも聞いたことのない昔の内之浦の様子が分かって勉強になりました」など、子どもたちから声が寄せられていて、それが橋本さん自身の活力にもなっているそうです。
ロケット関連の資料や写真を保管している橋本さん宅の一室
「こういった話ができるのは、婦人会の先輩や仲間、当時の町長、糸川先生に出会えたからこそ。その方たちがいなかったら今の私はないといっても言い過ぎではありません。実験場と婦人会、内之浦の歴史を広く話していくことが恩返しになると思っています」
次の世代へと当時の様子を伝える語り部として、まだまだ元気に活動に取り組む橋本さん。オレンジ屋根のレトロな古民家で語り継がれる思い出話は、先輩の田中キミさんや多くの仲間たちの思いがこもった大切な物語です。
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