昭和19年(1944年)2月6日に起きた第六垂水丸沈没事故。
定期旅客船の第六垂水丸が垂水港付近で転覆沈没して、垂水や鹿屋、肝付町など大隅半島の人々を中心に400名以上が亡くなりました。重大な海難ですが、戦争中であったため、 新聞に数行報じられた程度で広く知られることはなかったそうです。
この日は、鹿児島市の西部第十八部隊の面会日で、最後となるかもしれないと多くの家族が面会に向かい、定員を遥かに超えた600名以上が乗船していたそうで、第六垂水丸は出港後、方向転換しようとしてバランスを崩し、転覆しました。
この事故を描いたのが、肝付町の郷土史家・竹之井敏さんの「冬の波」です。この作品のおはなし会が、11月10日に肝付町新富の西方寺で開催されました。語り手は鹿屋市の「お話文庫 Po絵夢(ポエム)」のメンバー、中西久美子さんです。
朗読の前には犠牲者のためにお経が上げられました
学校司書だった中西さんは、教職員をしていた作者の竹之井さんと同じ学校に勤めたことが縁で、14年間に渡って一緒に親子読書会を続けました。その活動のなかで、この垂水丸の話を知り、自身もそれまで詳しくは知らなかったこの事故のことを「語り継がなくては」と思い、鹿屋市を中心に朗読をするようになったそうです。
今回の朗読会は、作者である竹之井さんの暮らす肝付町でこれまで開催されていないことから、西方寺仏教婦人会の村中キヨさんが中心となって企画しました。
当日、会場にはおよそ80名の地域住民らが集まって、中西さんの巧みな語りに聴き入り、なかには目元をおさえる人の姿も見られました。
語りを終えた中西さんは「この作品の朗読をはじめて30年以上になりますが、高山でこの作品の朗読をしたのは初めてです。こんなにたくさん集まるとは思っていませんでした。しっかり聞いてくれてありがたかったです」と話しました。
「冬の波」を語る中西さん
すべて覚えているので暗唱で語ります
また、「この話を朗読するときには必ず関係者と出会います」と中西さんが言ったとおり、会場には親から話を聞いた、夫が船に乗っていたという人たちが「改めて聞きにきました」と足を運んでいました。
参加した田代マチ子さんは「同じ集落の住民の遺体を引き取りに行った母から、『あんなにたくさんの遺体を見たのは高山水害(昭和13年)と垂水丸のときくらいしかない』と聞いていました。その後、しばらくの間、船に乗ったときは怖くて甲板から中へ入ることができませんでした」、
栫ミカさんは「垂水丸に乗っていて助かった主人から話を聞いています。当時、14、5歳だった主人は、寒い日だったので羽織を頭から被って甲板に乗っていたそうです。沈没したときは、子どもを背負った女の人にしがみつかれて一度海に沈みましたが、その後、手が離れたので浮かび上がり、浮いていた柳行李につかまって助かったそうです。一緒に柳行李につかまって助かった女学生はどこの誰だったのだろうかといつも話をしていました」とそれぞれ教えてくれました。
今回のおはなし会を企画した村中さんは「戦時中のことを忘れないよう、ずっと語り継いでいってほしい」と願っていました。
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