【きもつき情報局】人と人をダンスでつなぐ

通称・踊るJOU(Odorujou)こと城之尾薫。
 
2012年11月から2015年10月までの3年間、肝付町の地域おこし協力隊を務めた。
 
踊るとつくだけあって、踊るのが本業のコンテンポラリーダンサー。ダンスという身体的表現を用いるアーティストのひとりである。
 
だが、「自分の世界を身体で表現したいというよりも、むしろ人と人をつなぐことにダンスを活用したい」と、ダンスやアートを媒介に人の交流を生み、新しい動きを起こすことができればと考えている。
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取材を受けるJOUさん
出身は千葉県。父親の故郷である肝付町(旧高山町)には、小学校にあがるまでの間、よく訪れていた。とりわけ夏場に一ヶ月ほど滞在しては、川遊びなどで田舎の自然を満喫し、楽しい思い出として心に刻まれた。
 
それが後に「都会の子どもたちに同じような体験をさせたい」と都市部と田舎の交流を支援する活動を始めるもとになった。
 
部活動は陸上に硬式テニス、ソフトボールとダンスとは無縁の学生時代を過ごし、ダンスを始めたのは23歳のとき。
 
短大卒業後、一般企業に勤め、組織再編で所属部署がなくなったことをきっかけに、「なくなってもなにも変わらない歯車のひとつでなく、自分にしかできない仕事をしたい」と考えるようになった。
 
「でも、特技も、これをしたいということもなくて。それじゃあと13歳のときに自分が何をしたいか振り返ってみたんです」
 
映画をつくりたい、デッサンをやってみたいなどと列挙したなかにダンスがあり、体力的に年齢制限のあるものを優先しようとダンスを始めた。
 
モダンダンスやコンテンポラリーダンス、バレエなど、ダンススクールの夜間コースに通って習い、結婚を機に退職、夫のアメリカ赴任に同行した。
 
「アメリカではカレッジを3校くらい掛け持ちしてダンスを習って。バレエ、ジャズ、ヒップホップといろいろしました。でもやり過ぎて膝を故障してしまい、リハビリでピラティスを始めたら、これが面白くて。インストラクターになろうと勉強を始め、その後、マレーシアへ異動してからも、勉強を続けて資格を取りました」
 
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2014年8月に行われた芸術祭オープニングの様子
 
3年近く滞在したマレーシアは文化に多様性があり、舞踊も幅広く存在した。国立アカデミーの教授たちと作品づくりをしたり、誘われてショーダンスに出演してみたりと、やはりここでもダンス三昧の生活を送った。
 
また、地元の新聞に取り上げられたことがきっかけで、パハン州のスルタナ(王妃)のピラティス・インストラクターを務めることになり、帰国するまでの一年間ほど王宮に通ったという。
 
帰国後はマレーシアでの滞在期間中に知り合ったアメリカ人講師のいる日本女子体育大学へ編入学。
 
「大学では学生たちと一緒に活動していたんですが、卒業間際に体を壊して。それで『時間には限りがある』と感じて、学科内容がどちらかといえば教員・指導者養成だったことから、もっとダンスを専門にしたいとダンス学科のあるオハイオ大学へ編入しました」
 
31歳にしての、いわばダンス留学。在学中には、プロアマ関係なく選ばれたグループしか出場できないダンスフェスティバルに2年連続で出場するなど精力的に活動した。また、日本への卒業旅行では、東京のダンススタジオと学生たちによるコラボ・ワークショップ公演も企画した。
 
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滞在中のアーティストや地域の住民と一緒にダンス
 
2000年に帰国し、当時、ダンスで食べていくことは無理といわれているなか、「ダンスで身を立てられるのか挑戦したい」と本人いわく「遅咲きの冒険心」で離婚。英語通訳として、ダンスフェスティバルやコンクールの手伝いを始め、日本のダンス界に「裏方」デビューした。
 
国内ではほぼ無名の状態で日本のダンス界に入ったことで「しがらみがなく、フラットな目線で付き合えました。ただ日本のダンス界での常識を知らなかったことと、後ろ盾がなかった分、叩かれるときは叩かれましたね。『痛さを伴う自由』でした」と振り返る。

 

これまでは「積み上げてきたものを一度リセットしてゼロから始める」ことを繰り返してきたが、自分が得たものを還元する場所、「ただいま」と帰って来ることのできる場所をつくろうと考え、まずは10年間、同じ場所に住むことを決めた。
 
東京を拠点とし、国内外でダンスの公演を行いながら、映画(「ベロニカは死ぬことにした」「天使」)やテレビ番組、文学座の研修生公演などで振り付けの仕事をすることもあれば、「声帯も体の一部だからしゃべる経験もしたい」とワークショップ公演で女優として舞台に立つ経験もした。
 
また、2008年には、ソウル国際振付祭にて外国人振付家特別賞受賞、さらに武蔵野美術大学で2009年からアシスタント講師、2011年からは非常勤講師を務めるようになった。
 
そして10年が過ぎ、「同じ場所に居続ける」目標を達成すると東京を離れることにした。
 
「田舎を拠点として、プロとしての活動を続けられるのではないか。東京でなくても、どこにいても仕事はできるという証明をしてみよう」と、2012年3月、なじみのある肝付町へ移住を決めた。
 
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子どもたちと一緒に踊るJOUさん
 
家探しをしながら、まずは「あいさつ代わりに」と取り組んだのが「おおすみ夏の芸術祭2012」。国内外からアーティストを招き、2市2町にまたがる広域芸術祭となった。そして同年11月から、肝付町の地域おこし協力隊に着任した。
 
「都市とつないで交流人口を増やそうという試みが地域おこしにもなるのでは、ということで、地域おこし協力隊になったんですね」
 
そして交流人口を増やすことを目的に広域芸術祭の開催や空き家再生事業などに取り組み、3年間の任期を終えた。
 
活動を通して感じたのは、町の人々に「自己表現とコミュニケーションをとる場が少ない」こと。
 
「もっとそうした場を増やすことで、みんなもっと自分の言いたいことを言えるようになると思います」
 
任期の3年間で目的を達成できたとはいえないものの、「多少なりと交流が進んで、新しいつながりができるきっかけづくりになったのではないでしょうか」と振り返る。
 
今年2月で50歳となった。
 
「しばらくは充電期間。勉強しながら休養します」
 
そう言いつつも、次のステップを見据えて東京と鹿児島を行き来しながら、活動を続けている。
 
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