第8回高山歴史研究会が5月21日、肝付町文化センターで「道隆寺その後の状況」をテーマに開催され、13名が参加しました。
道隆寺は鎌倉時代、蘭渓道隆により開山された寺で、明治時代に廃仏毀釈により取り壊されたものです。場所は肝付町の本城地区、肝付氏の拠点であった高山城跡近くにあります。
今回は同寺跡の土地を所有している福谷平さんが同寺の整備を始めたきっかけや整備の状況、建長寺との交流などについて話しました。
高山歴史研究会の様子
福谷さんが調べたところ、廃仏毀釈後に同寺跡は公有地となり、明治34年にその一部を福谷さんの祖父が購入しました。観音堂が建っていた周辺の土地です。昭和初期には、竹やぶとなっていて、五輪塔が1基もきちんと立っていない状態だったそうです。
そんな寺跡を整備するきっかけになったのは、昭和41年、福谷さんが志布志の大慈寺に立ち寄り、偶然、住職と会って話をしたことでした。
自分の土地に道隆寺跡といわれている場所があり、五輪塔があると福谷さんが住職に伝えたところ、「道隆寺は大慈寺の末寺だ」といって大変喜び、大慈寺を熱心に案内してくれたそうです。その住職の様子を見て、福谷さんは道隆寺跡にいつか手を入れようと思ったといいます。
道隆寺跡で見つかったかんざしと古銭
その後、福谷さんが所属する、大隅の歴史研究などを行っている「大隅史談会」のメンバーで道隆寺跡を発掘しようということになり、昭和59年と平成5年に20基ずつ五輪塔が復元されました。それからも福谷さんが一人で発掘を続け、現在のような形へと整備しました。平成21年からは、道隆寺と同じく蘭渓道隆が開いた、鎌倉五山の建長寺との交流も始まり、建長寺関係者が道隆寺跡を訪ねたり、反対に肝付町の人々が建長寺を訪ねたりしています。
建長寺からの訪問団が訪れた道隆寺跡
また、福谷さんは「鎌倉は切り通しが多いのですが、道隆寺跡にも切り通しがあります。建長寺にやぐらがあるように、道隆寺にもやぐらがありました。また、弁財天にまつわる民話がどちらにも伝わっています。こうした共通点があるのは、二つの寺の間に、なんらかの交流があったからではないでしょうか」とかつて二つの寺で交流が行われていた可能性について話しました。
さらに、道隆寺跡だったことが柏尾山道隆寺と背に刻まれた仁王像が出土して証明されたことや六地蔵塔の一部、廃仏毀釈後に民家で祀られていた像部分が返されたことなどについて話しました。
仁王像の背中に刻まれた文字(左)と六地蔵塔
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