第10回高山歴史研究会が9月17日、肝付町文化センターで開催され、町内外から12名が参加しました。
前回に続き、平田好二さんが邪馬台国の位置をめぐる説の紹介や邪馬台国について記述している中国の歴史書「魏志倭人伝」(魏書東夷伝の一部)を取り上げました。
歴史研究会の様子
平田さんは、邪馬台国の位置については、北九州説と畿内説が主流を占めているものの、それは遺跡が多く見つかっている地域であることを根拠としており、魏志倭人伝の記述に合う説は存在していないことを紹介しました。
また、中国の史料の記述によると邪馬台国は海洋民族の国であったと考えられること、邪馬台国が存在したのは比較的短い期間であり、遺跡として残っていない可能性が高いことなどを指摘しました。
途中で牧遺跡(鹿屋市串良町)の紹介も
同日、現地説明会が行われました
邪馬台国は志布志湾岸にあったのではないかという仮説を平田さんは立てており、今後は魏志倭人伝を読み解きながら、その仮説について解説しいていく予定です。
なお、活動の一環として、11月に町内にある野崎氏の墓周辺の草払いなど整備作業をすることが提案されました。
こんにちは。
志布志は邪馬台国にとって、重要な拠点だったと私は考えています。熊本や上海への中継地として。
志布志から広島県の呉に向かい、大阪へ行ったと考えています。
また、『魏志倭人伝』にある経路は、博多→倉敷→大阪と考えています。
なお、私が考える邪馬台国は岸和田や堺にあり、西暦190年頃から280年です。天皇でいえば、崇神天皇から仲哀天皇までです。
以上です。