【きもつき情報局】大浦の昔のおはなし

肝付町の南端にある大浦地区。
 
山と海に囲まれた、平家の落人伝説の残る土地です。代々伝わってきた刀などもあったそうですが、戦時中に供出したり、土に埋めて隠したために錆びてしまったりなどして、失われたといわれています。
 
林業や炭焼が盛んだった時代は、鹿児島市とも船でよく行き来していたそうで、船が主要な交通手段となっていたようです。
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(山の尾根を通る道路から見た大浦)
 
取材に訪れた日、大浦のよいところを振興会長(※)の白坂義信さんに尋ねると「自然」と答えが返ってきました。 ※振興会=町内会
 
「ここは静かでしょう。自然の音しか聞こえない」
 
家の外に出ると聞こえてくるのは、川のせせらぎと鳥の声。車のエンジン音ひとつ、人工的な音が聞こえず、さびしいと感じる人もいるかもしれませんが、ある意味とても贅沢な環境です。
 
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(住民から頼りにされている振興会長の白坂さん)
 
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(劇のビデオを鑑賞中。みなさん家族のようです)
 
今、大浦に暮らしているのは、そんな土地に暮らし続けることを選んだ人たちです。林業が盛んだった頃は300人以上が暮らしていましたが、現在はわずか10人足らずとなりました。
 
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(廃校となった大浦小学校のアルバム)
 
「ここがよか。やっぱい生まれ在所がな」
 
そう語るのは大正14年2月生まれの堀之内ツルエさん。
 
大浦の生まれで、大浦で嫁ぎ、今も大浦で暮らしています。
 
子どもたちは独立して故郷を離れて、今はひとり暮らし。病院は遠く、三年前には大浦で暮らし続けるための「危機」も訪れました。
 
猿が畑を荒らすのを追い払いに行って、土手で足を踏み外して水の中に落ち、怪我をしてしまったのです。
 
助けを呼んでも人がいなくて、なんとかはい上がってきたところを、たまたま通りかかって、道路からは見えなかったにもかかわらず異変を感じた白坂さんに発見されました。
 
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(「義信さんは神様だからお神酒をあげて拝んと」と冗談交じりに感謝の気持ちを示すツルエさん)
 
入院して治療を受けましたが、足を悪くして、手にもしびれが残ります。それでも大浦で暮らすことを望み、子どもたちとも話し合った上で、再び大浦に戻って、ひとり暮らしを続けています。
 
そんなツルエさんから、大浦の昔の話を聞きました。
 
 
◯年始の神事
 
「正月はやかましかったの」と語るツルエさん。
 
大浦では、旧正月で正月行事を行っていて、厳しいしきたりがあったそうです。
 
川と川の間の中洲には、小さな「神様の山」があって、そこは普段誰も入ったらいけない場所でした。入ることができるのは、正月の神事のとき、大人の男の人だけです。
 
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(ドローンで撮影した大浦の風景。集落の間を川が流れる)
 
「神様役」の二人が白装束を着て、朝は川へ身を清めに行き、昼は笛を吹きながら、川から海へ身を清めに行ったそうです。
 
この神事は元日から2日まで行われ、その間、この神様役二人はしゃべったらいけなかったといいます。また、神事の間、女の人は外に出てはいけなかったそうです。
 
3日の朝に青年たちがみんな集まって体を清めてから、神様の山に行き、火をたいて生竹を焼いたといいます。竹のはぜる音がぱんぱんと鳴ったら、「おのこえ」といって青年たちが声を上げたそうです。お神酒をいただき、餅を焼いて食べていたといいます。
 
残念ながら、この行事に参加していた男性はもうなくなってしまったので、詳細を知ることはできません。
 
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(八幡神社の鳥居。御神木のアコウの木は台風で倒れてしまったが新しい芽を出している)
 
ツルエさんは、親戚の家に遊びに行ったとき、冬の間は戸を閉めていたために、外の音が聞こえなくて、うっかりこの神事の間に家から出てしまったことがあるそうです。
 
自分の家に帰って母親から「『しば』を切った」と怒られ、「『しば』がほつれたときには謝りにいけばいい」と、後日、神様にお神酒を供えて謝ったのだそうです。
 
「しば」は「縛り」のことなのでしょうか。ツルエさんも、よくわからないとのことでした。
 
このほかには、転がしたみかんに向かって矢を射る「はまはま」の正月行事も伝わっていたそうです。
 
 
◯太平洋戦争の話
 
戦時中には、船で運ばれてきた物資を背負って海岸から這いつくばるようにして山を登っていって運び、山の上に海軍の兵舎を建てたのだそうです。
 
海軍と陸軍が駐留していましたが、爆撃されたことはなく、「音がして、はっと思ったときには戦闘機が通り過ぎていた」といいます。
 
ラジオも電話もなかったため、大浦の住民は終戦を次の日まで知らなかったそうです。終戦後2日目に、処分するためだったのか、軍が砲弾を発射したのですが、驚いたツルエさんたちはアメリカ軍が来たと思って山の方へ避難したといいます。
 
気がついたときには、兵舎から軍が引き上げていたのだそうで、この兵舎はその後、解体して、その材料をみんなで分けたということで、今は残っていません。
 
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(斜面に植えられた辺塚だいだい。大浦を含めた辺塚地区周辺に自生していたと考えられている)
今回は、この2つの話を中心に紹介しましたが、他にも家で焼酎をつくって物々交換していた話や船で行き来していた話などを聞かせてもらいました。今後も機会がありましたら、こうした「昔のお話」を紹介していきたいものです。
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