【きもつき情報局】歴史探訪 第8回 波見・野崎編3 波見の重家

きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪。このシリーズ最終回となる、第8回 波見・野崎編の第3部では、波見を拠点に交易で活躍した重家について紹介します。
解説は引続き肝付町文化財保護審議会会長の海ケ倉嘉通(かいがくら よしかず)さんです。なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています。
■重家と稲荷神社
 
ここは重家の守り神である稲荷神社です。京都のおそらく伏見稲荷を勧請して建てられたものです。
重家はもともとは京都に住んでいて、1500年代に京都から波見に移ってきました。供の人たちが8人ぐらいついてきています。今でもだいぶその子孫が残っています。
町の郷土誌にも載っていますが、一時は重家の先祖は倭寇だったと書いてあります。
波見は室町時代に倭寇の根拠地だったんですよ。それから志布志など根拠地は県内にたくさんあります。
倭寇の人達は大きな船を持っていて、朝鮮半島とか中国まで行っていたんですね。
交易のために行くのですが、向こうの人たちと言葉がもちろんよく通じないわけですから、交易が成立しないと強引に武力で略奪するようなことをしていたようです。
そのため日本の倭寇は非常に中国あたりの人たちから恐れられていました。中国では日本に取り締まりをしてくれと何回も使者を送ったりしています。
重家の先祖もそうした倭寇だったというんですね。
そして江戸時代に入るちょっと前ですかね。交易のために船で行って途中で行方不明になっている人達が重家のなかにいるんですよ。
それはおそらく中国の方に捕まってしまったのか、船を沈められてしまったのか、そういうことだろうと思います。
そして稲荷神社を建てて航行の安全を祈願したんですね。こちらにあるのは氏神様です。

 

この本殿のなかには天授2年(1376年)という古い紀年鏡(銘文に製作年号など年代を明らかにする文句が含まれている鏡)がありました。直径12センチちょっとのものですね。
それはもう行方不明になっていますが、古い鏡ですから重家の先祖がそれをずっと受け継いできたんだろうと思います。それをここに奉納してあったんですね。
脇に狐さんがまつってあります。稲荷神社は狐ですからね。
島津家も稲荷信仰です。島津家の先祖、忠久が生まれるとき、狐火といって狐が火を灯すんですね。それで無事に生まれたといされています。
そういうことから島津氏の守り神が稲荷になっています。
■重家の跡
 
ここには重家の墓があります。昔はその上の方まで墓がたくさんあったんですが、納骨堂を建てるために倒されたり下に埋められたりしました。
屋敷としてはさっき車を止めたあたりからここの下に平坦なところあたりです。だいぶ広い屋敷ですが、ここにも重家の、おそらく本家があっただろうと思います。
わたしが小さいころはここに遊びに来ていました。大きな家がありましたが、もうその頃は重家でなくて、益山どんといって高山の益山家の家になっていました。家の前に大きなソテツがありました。
江戸時代から明治にかわった廃藩置県のその後に県知事をした渡邊千秋という人がその家に来て泊まったことがあります。
そのときに「観波楼」という前をつけたということが郷土誌にも書いてあります。そこの家の中から波が見えたということで。
その家は戦時中に空襲で焼けてしまいました。そして、今はもう波見に重家は1軒もなくなりました。
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