【きもつき情報局】歴史探訪 第8回 波見・野崎編1 野崎の田の神

きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪。ここからは第8回波見・野崎編がスタートします。
波見・野崎は肝属川河口周辺に位置し、交易の拠点のひとつとなっていました。
波見・野崎編の第1部では、肝付町内で初期につくられた野崎の田の神を中心に田の神像について紹介します。解説は引き続き肝付町文化財保護審議会会長の海ケ倉喜通(かいがくら よしかず)さんです。
町内で2番目に古い田の神像
野崎の田の神は2体ありますが、鹿児島県指定文化財で、県内でも古い方の田の神です。
野崎の田の神像
野崎の田の神の説明板
田の神像のほとんどは石でつくられている石像です。
の像は坊さんの形をしています。僧型といいます。ほかに神官型といいまして神主さんの形をした田の神もあります。
内之浦の田の神はほとんどが神官型ですが、高山の方は僧型が多いようです。神官型もなかにはありますけれども。
そのほかに田の神の形というのは面白い形がいろいろあります。旅をしているところの姿とか、踊っている姿とか。
高山・内之浦の田の神はきれいな形の田の神が多いです。ほかのところの田の神を見ますと、自然石を素人が削ったような田の神が多いんですね。
高山だけでも53体あるようです。そして内之浦が17体ですかね。
この辺は大園地区です。西大園、東大園と分かれています。それと隣の和田と一緒になって建てたのがこの田の神です。
田の神像は集落単独で建てたものもあります。また、山の上にある田んぼのところの田の神などは、その田んぼの持ち主が建てたものもあります。
ですから建てるのに決まりはないようなんですが、大体そこの周辺の人たちが田んぼを見渡せる場所に田の神は建てられます。
(田の神は)豊年豊作を祈願する神様です。
薩摩藩では1700年代になって田の神が建てられ始めました。一番古いのがさつま町の紫尾山にあるものです。1705年といわれています。
県内最古の田の神像(写真提供:兒嶋正明さん)
 
紫尾の田の神の説明板(写真提供:兒嶋正明さん)
野崎の田の神像は寛保3年となっていますので、1743年になります。40年近くあとに建てられているんですが県内では古いほうです。
以前、内之浦町と高山町が合併する前は、高山の寛保3年のものが一番古いと、大隅地区でも古いんだということを話していたんですが、合併後に調べたら内之浦の乙田というところにある田の神が1年早いんですよ。寛保2年となっていました。高山よりも1年早い田の神が肝付町内に(内之浦に)あるということですね。
乙田の田の神像
内之浦に神官型の田の神が多いのは、1700年代に(宮崎県)都城の北郷(ほんごう)家の支配を受けていたからです。都城・小林辺には神官型が多く、そこの田の神と同じようなものが内之浦は建てられているというわけです。
この田の神像は寛保3年ですが、3年後に塚崎の田の神が建てられています。町指定(文化財)です。
ほかにも昭和に入ってからも建てられたものなどがあるようです。
塚崎の田の神像
田の神というのは農作物ができるようになどひとつの信仰として建てられた神様です。全国的にほかのところにも田の神信仰はあるのですが、こういう像をつくって建ててあるのはこの薩摩藩だけです。旧薩摩藩、鹿児島県と宮崎県の一部ですね。どういうわけで薩摩藩が田の神像をつくるようにしたのかそのへんははっきりわかりませんけれども。
ここでもするんですが、お祭りとして田の神講というのがあります。大体1年に1回、田の神講をして、みんなでお祝いしてお祭をするという風習があります。
屋外に建ててある田の神像のほかに屋内にまつる、持ち回りの田の神というのがあるんですよ。
担いで持って歩くように石像は小さいものです。今年の宿から来年の宿へ移すとき、担いでいって途中で踊りを踊ったり、ごちそうをしたりして。新しい宿ではごちそうをして待っているというような風習が町内にもあったんですよ、池之園とか何カ所か。今はもうほとんどなくなっていますけれども。
ただ田の神のまつる行事だけはこのへんも毎年しています。
特に塚崎の田の神を見られた方はわかると思いますが、きれいな彫刻なんですね。隣の東串良町の町指定文化財の下伊倉の田の神が塚崎の田の神とよく似たきれいな田の神です。
東串良町・下伊倉の田の神像
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