きもつきの歴史をたどる歴史探訪。今回は番外編 第1部として、高山城周辺に残る合戦場跡について紹介します。
永正3年(1506年)に行われた、島津氏第11代忠昌による高山城攻めは2カ月以上にわたる激戦で、その痕跡である陣跡や塚などが周辺に残っています。
今回の解説は肝付町観光協会ガイド部会部長で、肝付町生涯教育課が主催する講座「ふるさと探訪」の講師を平成26年度から務める福谷平(ふくたに たいら)さんです。
なお、下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています。
島津忠昌の高山城攻め
島津氏11代の忠昌が永正3年(1506年)に高山の本城を攻めます。そのとき2カ月以上にわたって激戦があったわけです。永正3年8月6日から10月12日まで戦いがありました。
その跡が、旧高山町の小字になったりして残っていますので、ものすごい激戦だったことがうかがわれます。
この戦いのときに島津の一門でありながら高山の肝付氏に加勢をした人たちがいます。
ここは合戦田之陣といいまして、(島津一門の)志布志の新納忠武(にいろ ただたけ)という人が陣を張ったところです。
また、堂園之陣というのがありまして、そこは飫肥の島津忠朝(ただとも)が陣を張ったところです。この人も島津一門でありながら肝付兼久、肝付氏に加勢したわけです。
左のこの田んぼ、ここも非常に激戦地だったんでしょう。ここの大字は前田ですけど小字は合戦田という小字になっています。
合戦田の周辺
そしてそこのちょっと右のところは宇都之陣です。ここは真幸院(まさきいん)、宮崎県のえびのとか小林とか、あの辺を治めていた北原氏が肝付氏に加勢をしたときに陣を張ったところです。
そしてもう一人、熊本の人吉の相良近江守長毎(ながつね)という人が川の向こうのほうのところに陣を張った跡があります。それは今でも 球磨(求摩)陣といわれていますけど、シラスをとったために形は残っていませんが、場所はちゃんとあります。
島津忠昌はここに来て、肝付氏にいろいろな支援があったものだから結局は負けて帰るわけです。
なぜこういう人たちが肝付氏に加勢したかというと、肝付氏14代の兼久の息子に兼興(かねおき)というのがいまして、この兼興の最初の奥さんが人吉の相良氏の次女だったんですね。
そういう婚姻関係があったものですから加勢に来たんです。人吉から武具や食糧を持って加勢に来るわけですから大変だったと思います。
とにかく肝付氏にはそういう支援がいっぱいあったものですから、忠昌は勝つことができずに帰って、2年後には自殺しました。
天澤和尚と経塚
この辺りは今でも小字は軍原と書いて「いくさばい」といってます。
そこに経塚のプレートが立っていますが、あそこには、あのプレートに書かれている文字とまったく同じ文字の刻まれた石碑が倒れています。
畑のなかに残る経塚
これを建てた人については、(プレートの)左の方に願主天澤了敲上座(がんしゅてんたくりょうこうじょうざ)と書いてあります。右の方には永禄庚申九月吉日と書いてあります。
ここは激戦地でしたので、折れた武具とかそういうものを積んだ所、塚が往年の頃は70から80基あったといわれていますけど、今残っているのはもうただこの1基だけです。
これを建てた人は天澤和尚です。このことについて、わたしは今まではうその説明をしていました。
宮崎県の日南に南郷というところがあります。そこに延命寺というお寺がありまして、その住職さんに天澤という和尚がいたんですよ。その人は今でも南郷町にお墓が見つかっていないものですから、てっきりこっちにあるお墓のこの人が南郷町の住職の天澤だろうということになっていたんです。
さっき飫肥の島津忠朝が肝付氏に加勢をしたといいましたが、そのときに忠朝が南郷町あたりのいわゆる兵士をたくさん連れてきて、ここでたくさん犠牲者が出たから、南郷町の天澤和尚が悼んでここに経塚を建てたんだろうということになっていたわけです。
ところが、肝付氏10代の兼氏の弟の玄孫、やしゃごに、天澤和尚がいて、ここにこういう経塚を建てたというのが記録で出てきました。つまり、これを建てた人は肝付一族の天澤だったというのがわかったわけです。
ですから今まで南郷町の天澤は、まったく後づけの説明だったというわけで、今まではちょっと間違っていたんですね。いい勉強になりました。
地名に残る戦跡
あそこに国見の小学校と中学校がありますが、あそこの集落を染木といいます。「ぞめき」といったり「そめき」といったりします。
この辺で激戦になったときに死者や負傷者の血が草木を染めたから、染木となったといわれています。
それでここは激戦があったものだから、この染木がつく小字が4つあります。
染木といわれている集落の辺りは染木原(そめきばる)です。向こうの南のほうに行きますと染木前という字もあります。それから染木下という小字もあります。もうひとつ、染木谷というところもあります。
今も激戦があったということが、地名に、小字に生きています。
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