きもつきの歴史をたどる歴史探訪の第4回岸良編の第3部では、肝付氏から分家し岸良を治めていた岸良氏について肝付町文化財保護審議会会長、海ケ倉善通(かいがくら よしかず)さんの解説でお伝えします。
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられていますのでご了承ください。
岸良兼基夫妻の墓
この大きな五輪塔の2つが岸良氏の最初、ここに移ってきた兼基(かねもと)本人とその奥方の墓です。
岸良氏初代の兼基夫妻の墓
これは納骨塔といいまして骨を入れてあります。ですから正真正銘の墓なんですね。
五輪塔のここ(屋根のような形になっているところ)の肩の斜めの部分、斜面がこう急になっているほど古いです。新しいのは平たくなっています。
五輪塔も江戸時代につくったものもあります。これなんかは(時代が)遅いつくりで、肩が横に張っています。
時代により斜面の角度が異なる五輪塔
そして、ここの下の平坦地になったところにお寺があったんだろうと思います。そこにも石塔があって、肝付氏の石塔と同じ形のものもあります。
岸良氏の記録
岸良氏は外からほとんど攻められていませんので、史料がある程度残っています。ですから文永11年(1274年)にここに移ってきた初代からその後2代、3代とはっきりここの領主といわれる人たちが記録として残されています。珍しい例です。
肝付(氏)は初代が兼俊(かねとし)です。2代の兼経(かねつね)の墓といわれるのは(東串良町の)柏原にありますが、3代も4代も墓の場所はわかっていません。5代兼石は、ここの兼基の兄さんですが、高山地区の神之市に兼石の墓ではないかといわれるのがあります。
また、戦国末期に(肝付氏が島津氏に降伏する前の)島津氏との最後の戦いで落城した牛根城にいた人も岸良出身です。岸良家から安楽家に養子にいった人で岸良氏ではなく、安楽氏になっていますが。この志布志の安楽家も肝付氏の分家です。野崎氏も分家ですが、初代はこの岸良兼基の弟で、4代肝付兼員(かねかず)の三男です。
兼基がここに移ってきた文永11年といいますと元軍が攻めてきた元寇の年です。2回攻めてきていますが、もう1回は7年後の弘安元年、1281年です。
このように、ここの岸良氏の記録が肝付氏の歴史を補う形になっています。
さっき平田神社に行きましたが、肝付氏11代の兼元(かねもと)が再興したという記録があります。ここは分家ですが本家とはやっぱり交流がしょっちゅうされていたということですね。
岸良氏の墓の説明板
質問:説明板の系図にありますが「三代兼村 四代兼義 三代兼村 四代兼義」と繰り返しているのはどういうことですか。
これは一度、4代目に代替わりしたんですが、またそのあとを3代目だった人が継いだんですよ。そしてまたあらためてそのあとを4代目の人が継ぎました。途中でいろんな不祥事があったりして前の領主にまた戻ることがよくあるんですね。
また、同じ名前が使われる場合も多いです。昔は、おじいさんの名前を孫がそのまま使うようなことが多いんですね。だから年代を特定するのによく間違えるんですよ。名前だけ記録に出てきた場合は果たしてだれなのかということがわからない場合があります。
ここは田んぼもそんなに広くないですからどれだけの勢力を岸良氏が持っていたかははっきりわかりません。とにかく肝付氏の分家として、特に次男が来たということです。
海岸を守るために 文永11年、元寇の年に元軍が攻めてくるのを防ぐためにここに分家させてここを守らせたわけです。
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