きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪の第2回高山編の第7部では、昌林寺跡の墓地に残っている島津家にかかわる人物の墓などについて肝付町文化財保護審議会会長、海ケ倉善通(かいがくら よしかず)さんの解説でお伝えします。
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられていますのでご了承ください。
島津家から亀山家へ
これは亀山忠良(ただよし)という人のお墓です。
亀山忠良の墓
この人はもともと島津家14代の勝久という人の息子で、母親は根占の出身です。
根占家から島津家の勝久に嫁ぎました。
この勝久のときに出水の(島津)実久(さねひさ)という人が家督を譲れということで家督争いが起きたんですね。
勝久はその解決を加世田の島津忠良、日新斎(じっしんさい)と呼ばれている人に頼んでなかに入ってもらいました。
その結果、島津忠良の息子、貴久が島津家の15代を継ぎました。
そして、本来なら15代を継ぐ(亀山)忠良ですが、この人はいったん根占に帰ってきて、それから宮崎の方に行っています。そして江戸時代になって高山にまた帰ってきています。
この忠良には息子が2人いて、1人は桜島の藤野家、1人は高山の亀山家を継いでいます。
それで亀山忠良と名前が書いてあるのですが、本当の名字は島津で、島津忠良だったと思います。
調所家の墓
ここは上村家の墓地ですが、調所(ずしょ)家のお墓が鹿児島市から移されています。
鹿児島市から移された調所家の墓
この調所という人は、ご存知のとおり、江戸時代に5百万両の借財を整理して(薩摩藩の)財政建て直しをした人で、もともとは坊さんだったそうです。調所笑左衛門広郷(しょうざえもんひろさと)という人なんですが、島津家に3代仕えました。
もともと5百万両、藩の借金があったんですが、それをチャラにしてしまったんですね。
この借金はほとんどが大阪あたりの商人からの借金だったんですが、その証文を全部書き換えるからといって取り上げて、150年かいくらかの長い期間の証文に書き換えて、もうただみたいにしてしまったんです。ですから実質、証文を取り上げた形です。
そして、この調所広郷は奄美大島周辺の黒糖、黒砂糖を専売にしたんですね。
当時、砂糖は貴重なものでしたので、専売にして薩摩藩が大阪や江戸に運んで行ってそれを高く売って、独り占めにしたんですよ。
それと今の沖縄、琉球を薩摩藩が自分の藩にしてしまいましたので琉球との貿易をしました。
海外との貿易は簡単にできなかったんですが、琉球を通じて中国あたりのいろいろなものを大阪や江戸に運んで、そしてぼろ儲けというとおかしいですけど儲けてですね、その5百万両の(借金)を返した上に蓄財までしました。
その蓄財が、鹿児島市の磯にある尚古集成館の事業や明治維新の費用にも使われました。
薩摩藩という77万石の財政の莫大な借金を立て直した人ですから、調所という人は財政的な能力というのがすごい人だったんですね。
その人の墓がどうしてここにあるかといいますと、調所さんの3代ぐらいあとの人が、この上村家に嫁いできて、そして鹿児島市にはもうお墓を見る人がいないということで、高山に墓を移しました。それがこれです。
ここは昌林寺(しょうりんじ)というお寺の跡です。昔は広いお寺だったんですね。
ここに忠良の息子の忠辰(ただとき)の墓があります。親子同じところに墓をつくればいいのに別々につくってあるんですが。
亀山忠辰の墓
この奥の方には河俣(こうまた)家の墓があります。小さな墓が5つ並んでいますが、これは「江戸五人墓」といいます。河俣家が江戸に行って連れてきた人たち、下男ですね、
その5人の墓もあります。
江戸五人墓
河俣家はもともと肝付家に仕えていた家系なんですが、江戸時代も高山に残ってそして藩のなかでも高山の中心になって活躍した家柄です。
この記事へのコメントはありません。