八月踊りが、肝付町波見の浦町で10月17日に行われた。
「八月」踊りがなぜ10月にと思われる方もいるかもしれないが、もともと旧暦八月に行われていたものだからだ。
肝付町では、肝属川・高山川沿いの各集落に伝わっており、集落の人々が水神祠の前で鉦踊り(法楽)を行った後、夜に櫓のまわりで踊りをするという形式をとっていた。
肝属川河口左岸、現在の東串良町柏原から始まり、上流に向かって次々と集落で行われ、浦町で聞いた話によると鹿屋市祓川町のあたりまで遡った後、右岸へと移って今度は下流へ向かって次々に行われていたという。肝属川右岸の河口にある浦町はその年、最後の八月踊りが行われる集落だった。
(肝属川河口から上流をのぞむ)
今では、八月踊りを行う集落もだいぶ少なくなってしまったが、浦町では、旧暦の8月28日の日取りを守って行っている。
踊りが行われたのは国道448号沿いにある戸柱神社の拝殿。小さな神社だが、天保5年に寄進された石の鳥居が立つ。
(戸柱神社)
(境内には漁師たちが豊漁祈願をしていたという「鯛石」もまつられている)
踊りの前に、夕方、一旦集まって神社から400mほど離れた場所にある水神祠まで鉦を打ちながら歩いて行き、各自米と塩、酒――ただし「このあたりでは焼酎がほとんど」とのこと――を供え、鉦踊りを奉納した。
(祠に塩や米などを供える)
(水神祠の前で鉦踊り[鉦打ち])
夜、再び、境内に地域の住民が集まった。残念ながら、平日ということもあり、数は少ない。だが、たまたま東京から仕事で肝付町を訪れていた女性らが見学に訪れた。「見る人が多いほうが踊りがいもある」と歓迎ムードだ。
浦町の八月踊りは、本町の八月踊りと違い、踊るのは女性だけだ。今回集まった踊り手は5名。かつては出会いの場でもあったから若い独身の女性は晴れ着姿で、それ以外は浴衣に黒羽織、夫を亡くした女性は黒い頭巾を被って踊っていたのだと教えてくれた。
(踊りの前に黒い頭巾をかぶって説明)
踊りの曲は、全部で15曲ある。ふりはそれぞれ異なっていて複雑で、踊り手の一人が「ここに嫁いでもう30年以上経ったけれど覚えきれない」というほど。また、集落ごとにふりは違い、対岸にある柏原(東串良町)から嫁いできた女性でも、あちらとは違うと話す。
(踊る女性たち)
(袖をつまむ仕草に「かわいい」との声も)
(手振りでの参加も)
昔は2階建てのやぐらの上で演奏をし、そのまわりで踊った。15曲踊るので夜中まで続き、途中の休憩(なかあい)以降は男性や他の地域の人々も踊りに加わることができたという。このあたりは、本町八月踊りと共通している。
(歌本を見ながらうたう男性たち)
(八月踊り歌本。音楽は唄と太鼓と三味線で、昭和43年に録音したものを使っている)
(家族や地域の人々が見物に集まる)
この日は、踊り手が高齢になったこともあり、8曲を途中のきりのいいところまで踊った。女性だけの踊りなので、手の動きや足さばきもたおやかだ。途中から、見学に訪れていた踊り手の孫たちも、見よう見まねで踊りに加わった。
(子どもたちも参加)
(見よう見まねで踊る)
その地域にだけしかない伝統の踊り。子どもの数も減り、継承はなかなか難しいが、残していきたいものだ。
※当日の様子を動画でも御覧ください。
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