もともとはエンジニアになりたかったんだけどねぇ――そういって人懐っこい笑顔で話してくれる石川準市郎さんは、その温かい人柄と幅広い科学の知識で多くの町民から慕われている人です。長年中学校で理科の教員を務めた後、得意のコンピューターの知識を使って10年以上にわたり、町内のパソコンクラブなどで教えています。
今年で82歳の今も元気でバイクにまたがり(免許がないので車は運転しません)、かわいい教え子(といっても年配の方がほとんどですが)からヘルプの要請があれば、その人のもとに飛んでいって、トラブル解消のために日夜働いています。
引退後は人生を人助けのためにささげている――まさにそんな感じです。
なぜそれほど人から頼りにされているのかというと、石川さんの笑顔を見れば、その理由はすぐにわかるというものです。日焼けした顔にいがぐり頭で、ところどころ欠けてしまった歯が笑うと見えてしまう口元。そんな愛嬌のある表情で石川先生は老若男女を問わず、子供だろうがお年寄りだろうが、だれにもわけ隔てなく接しています。そうした公平無私な姿勢が人々の信頼につながっているのです。
辺境の地で教員生活をスタート
昭和5年に旧高山町で生まれた石川さん。旧制鹿屋中学に通っていたところ、終戦で制度が変わり、新生の鹿屋中学校に編入となり、旧制時代も含めると6年間そこに通うことになりました。卒業後は、都会にでてエンジニアとして生きたいと思ったものの、結局、家族の反対で教員になる道を選んだといいます。
最初に赴任したのは、平家の落人伝説で知られる大浦(おおうら)の中学校です。道路事情がよくなった今でも大浦に行くのは大変だという人がいるくらいのところですから、石川さんが先生になった当時は今よりもはるかに険しい道のりだったことでしょう。(大浦の位置はこちら)
でも、なぜそれほど辺鄙(へんぴ)なところを最初の赴任地として選んだのか。
「実は、中学生のときに同級生数名と歩いて大隅半島を旅したことがあるんですよ。そのとき佐多(さた)の大泊(おおどまり)というところまでは行けたのですが、そこから先の大浦あたりまでとなると、とても歩いてはいけないといわれて断念したのです。だから、赴任先としていくつかの学校が提示されたとき、迷わずに大浦を選びました」
赴任した日は、昭和24年5月24日。前日までに大浦の近くの岸良(きしら)までバスで行き、そこで一泊した後、翌日歩いて大浦まで行ったそうです。そのとき、大浦から出迎えに来てくれていた子供たちの姿が今でも忘れられないといいます。
さまざまな出会いに支えられて
ただし、実際に赴任してみると驚きの連続でした。
終戦後間もないころのことですから、子供たちは貧しく、特に女の子たちの服装が印象に残っているといいます。畑で働く女性のような格好で、上からはんてんを羽織り、腰には腰巻きのようなものをまきつけて授業に出ていたそうです。また、教科書はあったもののノート類が足らずに紙切れのようなものを使いノート代わりにしていたといいます。
さらには、教員の数が少なく、いきなり数学と理科、英語まで受け持つことになりました。ただし、ここでの出会いが文字通り、石川先生の人生を変えることになります。数少ない教員の中に中国大陸(大連)から引き揚げてきた父娘がいて、その娘さんと結婚することになったのです。
石川さん、20歳のときの出来事です(残念ながら、奥さんは平成15年、白血病で亡くなっています)。
結局、大浦の学校には2年間いることになったのですが、今でもいろいろなことが思い出されるといいます。一つは、若い漁師たちとの交流です。当時の大浦には50戸を超える世帯があり、そのうちの青年グループに属する若者たちが毎晩のように石川さんの家にやって来て、海のことや漁のことについて話を聞かせてくれたのだそうです。
また、近くの山でとれる毛皮の商売のことも忘れられません。当時の石川先生の月給が1900円程度だったのに比べ、うさぎ一匹の皮の値段は100円、そしてタヌキだと一匹で600円もしたのだといいます。5月から6月にかけては海が荒れて漁に出られないので、漁師たちは動物の皮をとって生計の足しにしていたのです。
石川さんにとっていわば原点といえる大浦での仕事と暮らし、そして人々との出会い――貧しくとも助け合いの精神に支えられた集落での経験が、石川さんのその後の教師人生にさまざまな形で影響を与えていったのだと思われます。
大浦を去った後の石川さんは大浦の隣にある船間(ふなま)中学校に赴任して以来、川上中学校、国見中学校、田崎中学校、さらには大崎中学校とさまざまな学校で教鞭をとった後、38年間にわたる教員生活にピリオドを打つことになります。
出世より子供たちと一緒にいたい
長い教員生活を送るとなれば、当然、教頭先生や校長先生になるチャンスがあったのではないでしょうか。そのことについて聞くと、「いやぁ、私は現場から離れたくなかったからね」と石川さんは答えます。出世よりも子供たちと一緒にいることが好きでたまらなかったのでしょうね。
そうした石川さんの子供たちに対する思いは彼らにも十分伝わっていたようで、たとえ親やほかの教師から「問題児」と見られた子供でも「石川先生だけは別だ」と話をしてくれたといいます。また、石川さん自身も問題のある生徒のほうが「かわいい」と思え、親身になって相談に乗れたそうです。
教員時代にいちばん苦心したのは、「どうやったら学ぶことに関心をもってもらえるか」だったと石川さんはいいます。興味をもってもらえるように、常にいろいろなことにチャレンジして、少しでも生徒たちが飽きずについてこれるように努力したそうです。
その努力の中には「新しいことを学ぶ」ことや「新しいことに挑戦する」ということも含まれます。その挑戦したものの一つがコンピューターでした。
パソコンとの運命的な出会い
その出会いについて石川さんは次のように説明します。
「あれは昭和53年だったでしょうか。鹿屋高校の物理の先生をしている知り合いがいて、その人に誘われて鹿児島市内であったマイコン(当時はそう呼んでいました)の講習会に参加することになったのです。4日間の予定だったのですが、1日受けたところでほとんど理解できずに帰ってしまいました。
でも、それであきらめるのは嫌だと思い、その講習会で講師が使っていたコンピューターを電気屋で買い(ちなみに、値段は35万円!)、書店から買ってきたパソコン本とにらめっこしながら、独学していったのです」
最初はパソコンを使って計算できればいいな、程度だったのが、それを使うと成績の処理にも役立つことがわかり、導入すると学校の先生たちが喜んだといいます。
一度好きなものが見つかるととことんまで極めるのが石川流なのでしょうか。それからどんどんパソコンにのめりこみ、定年より3年も早く退職し、自由な時間を使いながら、C言語から始めて独自のプログラム開発に熱中することになります。
その成果の一つが、当時、東京のある大手出版社が出していた雑誌に自作のプログラムを提出したところ、出版社側が評価し、石川さんのつくったプログラムを販売してくれたことです。内容的には、数学の授業に役立つプログラムだったとのことで、独学とはいえ、力量はすっかり全国レベルになっていたということです。「あまりお金にはなりませんでしたけどね」と苦笑いする石川さんですが、それがさらなる自信につながっていったことは間違いありません。
人助けのために残りの人生を使う
そんな石川さんが地元でパソコンを教えるようになったのは、今から10年以上も前のことです。当時、パソコンに興味をもった人たちが立ち上げたパソコンクラブで講師をしてほしいという依頼があったのです。さらにここ2年ほどは、そのパソコンクラブに加えて、町が行っている生涯教育の一環としてのパソコン教室でも講師を務めています。
その二つを合わせると、毎週1回は講師を務めていることになります。それなりの準備が必要ですし、そのほか、個人的に助けを求めてくる人もいますので、石川さん、なかなかスローダウンする暇がありません。
また、パソコン以外にも、子供好きだけあって、不登校の子供たちを世話するNPOの活動にもかかわっていて、そうした子供たちの面倒もみています。教えることのベテランで、しかも子供たちの立場に寄り添ってくれる石川さんの存在は、彼らにとって大きな支えになっていることでしょう。
このように82歳の今も現役バリバリの「先生」として子供たちからお年寄りまで面倒をみている石川さんの人生を見ていると、人のために動くことが何よりの長生きの秘訣なのではないかという気がします。
最初は教師という職業になじめなかったといいますが、そこにとどまり、愛する生徒たちのために努力し続け、さらには退職後もまわりの人たちのために奔走する石川さんの人生は、まさに「先生の中の先生」と呼ぶにふさわしい人生なのではないでしょうか。これから先もきっと元気でバイクにまたがり、助けを求める人たちのために町中を走り続けることでしょう。
先生、これからもよろしくお願いしますね!
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