【きもつき情報局】高山流鏑馬の歴史を紐解く~肝付歴史茶話会

肝付町高山麓の日高邸で6月15日、「肝付歴史茶話会」が開かれました。
 
日高家の武家門修復をきっかけとして、町の歴史について話し合う場を設けようと古瀬徹さんとマルさん(旧姓:日高)夫妻の呼びかけで始まったもので、2回目となる今回は町内外の歴史愛好家7名が参加し、肝付町高山地区に長年伝わる流鏑馬(やぶさめ)について高山流鏑馬保存会広報担当の武下敏行さんの話を中心としてその歴史や意義が話し合われました。
 
はじめに、きもつき情報局が昨年撮影した「高山やぶさめ祭」当日の記録動画がプロジェクターで上映され、「射手の化粧は昔のように神社でするのではないですね」「馬は1頭ではなく2頭なのですか」など参加者からの質問に武下さんが答えながら解説していきました。
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2012年に行われた流鏑馬
 
続いて、一昨年に鹿児島市の仙巌園で小笠原流の流鏑馬が行われ、そのときに高山の流鏑馬の流派はどこなのかと関係者から尋ねられたことで高山流鏑馬保存会がその歴史をあらためて調べ始めたという経緯を武下さんが説明、高山の流鏑馬は神事としての性格を強く残していることから流鏑馬の原形をとどめた「古式流鏑馬」である点や、射手を未成年の少年が務めるのは全国的にも珍しい点などその特徴を解説しました。
 
また、調査の過程で出てきた史料として、明治31年に当時の四十九所神社祠官の守屋常磐氏が高山流鏑馬について記録した「鏑流馬物忌等始終之事」が紹介され、その中でもっとも古い記録として明治4年の射手や馬主などの名前が明らかになったことなどが報告されました。
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高山やぶさめについて解説する武下さん
 
メンバーの一人で平田靱負の末裔で肝付町の歴史を研究している平田好二さんからは、肝付氏の祖先である伴一族が神官を務めていた全国各地の神社で流鏑馬が行われていることから、平安時代前期に起きた応天門の変(866年)によって伴一族が全国に配流されたことで流鏑馬も広がったのではないかと考えられるとの指摘がありました。
 
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流鏑馬と伴一族のかかわりについて説明する平田さん
 
伴家は紀家とともに武人に関する伝統的な宮中行事や法令、制度、儀式などについての知識(武官故実)を伝える役目を担っており、そのなかに流鏑馬も含まれたと考えられることや九州最古の流鏑馬の記録は伴一族が神官を務めていた佐賀県の河上神社(與止日女神社・よどひめじんじゃ)の1161年の記録であること、鹿児島県内で流鏑馬を行っている曽於市の住吉神社、日置市の大汝牟遅神社ももともとは伴一族が神官や射手を務めていたことなどがその根拠として挙げられました。
 
また、ほかにも、かつては町内で内之浦地区の高屋神社をはじめとして馬場の地名の残る地域では流鏑馬が行われていたこと、流鏑馬が行われなくなっていった要因のひとつとして農耕馬が使われなくなったことなどが指摘されました。
 
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歴史的な意義をもつ会場で地域の歴史について熱心に話し合う参加者
 
肝付町出身の横山貴久さんは「かつては高山小学校に通い、流鏑馬を身近なものと感じていたのですが、これほど深い歴史があることを知りませんでした。町外から訪れた人たちにもっと詳しく教えられるようになりたいです」と語り、あらためて郷土の歴史について考えた様子でした。
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