きもつきの歴史について学んでいく歴史探訪の第2回高山編の第5部では、寛文年間(1661年~1671年)に島津図書久通によってつくられた高山用水路について肝付町文化財保護審議会会長、海ケ倉善通(かいがくら よしかず)さんの解説でお伝えします。
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられていますのでご了承ください。
新溝記と隧道
道路の右側(高山川沿い)に記念碑が立っていますが、これは(今回の講座で)(墓を)見てもらった島津図書久通がつくった、この用水路の完成のときに建てられた記念碑です。
高山川沿いに立つ新溝記
これにはその由来が彫り込んであったんですが、もう分からなくなってしまいました。一部セメントでついだり、割れたりしています。
もともとはこの左側の山の下にありましたが、この県道を拡張するときに今の位置に移されました。
これは新溝記、新しい溝と書いて「しんこうき」と読みます。
この文字は二階堂家住宅の先にあった昌林寺というところの坊さんが書いたものです。当時、非常に難工事だったことなど由来が書かれているのですが、もうほとんど読めません。
道路の左側に隧道があります。昔はトンネルのことを隧道といっていました。
隧道の跡
隧道の説明板
高山用水路がずっと(上流の田布尾堰から)流れてきているんですが、ここはせり出した山だったものですからトンネルを掘りました。その跡で、現在はもう水は流れておりません。
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