きもつきの歴史をたどる歴史探訪。第7回宮下編の第2部では、新福寺跡を紹介します。
解説は引続き肝付町文化財保護審議会会長の海ケ倉嘉通(かいがくら よしかず)さんです。
なお、以下の文章は解説を書き起こしたものですが、話し言葉のため、若干の加筆・修正が加えられています。
新福寺跡と言い伝え
ここは新福寺というお寺があった場所です。さっき見た桜迫神社の仁王像はここにあったはずです。
そこに由来が書いてあるんですが、そのなかで阿南(おなみ)御前のお墓であるとされている大きな五輪塔があります。
新福寺跡に立つ石碑
このあたりではそういう言い伝えがあったようなのですが、阿南御前がこの宮下に来たという記録はありません。どうして、ここに住んでいたという話が伝わったのかはわかりません。
(言い伝えでは)そこの川で阿南御前が洗濯をしていたところ、カッパが出てきて子どもに悪さをしたそうです。そのカッパを阿南御前が捕まえて指を切って、その指が桜迫神社に残されているんだという伝説が残っているそうです。
ここにあるのは町内でも大きな五輪塔です。だれの五輪塔なのか、いつ建てられたのか、はっきりわかりません。
この脇にあるのは肝付氏の墓です。
五輪塔と肝付氏の墓
宮下には宮下城という城跡がありました。ちょうど桜迫神社の上です。その堀の跡などが残っています。
城には肝付氏の家臣がおそらく来ていて、その人達がこのお寺のなかに墓を建てたものだろうと思います。
この上のほうが崩れて埋まってしまっていたのを掘り起こしてまとめたのがこれです。
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