この下の写真に写っているのは、活版印刷機です。現在ではデジタル化が進んで使われることが少なくなりましたが、この機械はつい一年ほど前まで現役でした。
持ち主は昭和17年生まれの原田健一さん。肝付町新富の、昔ながらの商店街の面影を残す「本町(ほんまち)」で、長年にわたり印刷所を営んでいました。
本町は江戸時代から続く商業地区。かつては野町(のまち)と呼ばれ、三間間口(さんげんまぐち)という、通りに面する幅が三間と狭くて奥行きが深い区割りが特徴です。
原田さんはこの本町生まれの本町育ち。印刷所が始まったのは父親の代で、1935年頃に開業したそうです。
(印刷機の説明をする原田さん。鹿児島県無形文化財に指定されている「本町八月踊り」では太鼓奏者を務めています)
親戚の口利きによって、現・鹿児島市の谷山にあった印刷所から印刷機などを買い取って開業しましたが、第二次世界大戦中には金属供出により機械を全部持っていかれてしまいました。
戦後、今度は垂水にあった印刷所から機械を買い取って再開。姉一人、妹四人で、跡取り息子だった原田さんは中学校卒業後、父親と一緒に働き始めました。
印刷していたのは名刺やはがき、請求書などの事務用品が主。昨年は、楠隼中高一貫教育校から頼まれて特別にノートを20冊ほどつくったそうです。
初代の印刷機はなんと足踏み式。「回し始めは特に重くてね」と当時を振り返ります。印刷機は、使う前に毎回90カ所以上、油をさす必要があり、大変だったそうです。多いときは10台の印刷機がありました。
1時間で刷る枚数は機械にもよりましたが、1800枚から2500枚ほど。大量の印刷があるときは、2日間立ちっぱなしで作業していました。印刷機に紙を送るのも、今と違って手作業だったからです。
(ゴムは古くなると固くなるため「インクを練るには『にかわ』がいい」とローラーに使う「にかわ」も手づくりしていたそうです)
印刷前の準備も大変でした。印刷する文章に使う文字、活字を一文字ずつ用意しなくてはいけません。「文選」という工程です。
(大きさの異なる活字。鉛や錫などの金属を使用しています)
原田さんの印刷所では、7種類の文字を使っていたそうで、大小さまざまの活字が今も棚にぎっしりと並んでいます。
(全部でのどのくらいあったかはわからないという活字がぎっしり並んでいます)
このなかから、必要な活字を一文字ずつ探すのですが、一文字探すのにかかる時間はわずか2秒ほどだったといいます。どこにあるかを覚えているのです。
(縦書き、横書きで活字の置き方も決まっていたとのこと)
拾った活字は、原稿の通りに文字を並べて(植字)、版をつくり、組み上がったものを紐で縛ります。これを機械にセットして印刷にかけるのです。
(はがき用の版)
刷り上がった印刷物を運ぶのも自動車の普及していない時代は一苦労。隣町(現在の鹿屋市吾平町)まで刷り上がったチラシを自転車にのせて、夜、懐中電灯を頼りに運んだこともありました。
「二本松のあたりから先は真っ暗でしたよ」と原田さんが思い出を語る場所は現在の県道73号、高山交番がある辺りで、かつては地名になっている通り、松並木があったそうです。
親子2代、80年以上続いた印刷所を閉めたのは昨年10月。
「取引先にはがきを出して連絡したんだけどね。閉めた後も何件かは知らなかったということで注文を受けたよ」と話す原田さん。今でも印刷できるのかきいてみましたが、「もう紙がないからできない」とのことでした。
こうして長年の仕事を終えたものの、今も「いろいろ忙しい」と原田さんはいいます。民生委員など地域のさまざまな活動に携わっているからです。
そんな原田さんですが、昔から忙しい中でも時間をみつけて趣味を楽しんでいます。その趣味のひとつが「バードカービング」、鳥の彫刻です。
(取材したときはホオジロを製作中。リアル感を出すにはなんといっても鳥の知識がないとだめだそうです)
小さいながらもリアルな木彫りの鳥たちが印刷所には何羽も飾られていました。今年はすすめられて、町民文化祭やイベントでの展示も行いました。
(町文化祭での展示コーナー。ほしいといわれることもあるそうですが、「売らないよ(笑)」とのこと)
「鳥が好きで、昔は野鳥を飼っていたのだけど、飼育規制が厳しくなって飼えなくなった」ことから、好きな鳥を手元に置きたいと本などを読んで独学で彫り始めたそうです。知り合いが木材を持ってきてくれることもあり、少しずつその数は増えています。
印刷所が木彫りの鳥のギャラリーになる――そんな日もいつか来るかもしれません。
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