01/古墳の時代:海上交流の要の地
3世紀半ばからおよそ400年間続いたとされる古墳の時代。
日本の中心は近畿地方にあり、古墳文化は東北から九州南部まで広まっていました。
その時代、ここ大隅半島もまた中央政権にとって重要な土地であったことが近年の調査により分かってきました。
南方との海を通じた交流の拠点として、志布志湾岸を重視していたと推察されています。
そんな大隅最古の前方後円墳と、本土最南端の前方後円墳がこの町にあります。
02/神話の時代:景行天皇伝説の地
第12代景行天皇は、熊襲征伐の際に内之浦に滞在しました。
その足跡が内之浦のあちらこちらに残っています。
▶ 叶嶽神社 … 天皇の願いを叶えた(写真左) |
▶ 小田の楠 … 根づいた忘れ物(写真右) |
▶ 高屋神社 … 西郷隆盛も拝んだ |
▶ 天子山 … 天皇が6年滞在した地 |
03/肝付氏の時代:要害堅固な山城の主
中世、山深き大隅で勢力を誇っていたのは肝付氏でした。
12世紀末に初代が誕生し、戦国時代は島津氏と領土争い。
名将・16代兼続の最盛期には島津氏を圧倒し北へ北へと領土を広げましたが、兼続死去後は衰退していきます。
1580(天正8)年に18代兼道が島津氏により阿多(南さつま市)に移封されるまで、肝付氏はこの地を治めた。
▶ 高山城跡 … 難攻不落の山城(写真左) |
▶ 盛光寺跡 … 肝付氏歴代のお墓(写真右) |
04/大戦の時代:太平洋を臨む戦跡
太平洋戦争末期、沖縄戦の後、本土決戦に備える日本軍は志布志湾の両岸に軍事施設を構築しました。
内之浦にも人間魚雷跡や砲台跡が造られましたが、使用されることなく終戦を迎えました。
05/崩された寺、永らえた神社
薩摩の志士たちが起こした明治維新。
1869(明治2)年の廃仏毀釈は多くの薩摩藩士を輩出した大隅でも強力に推し進められ、寺院のほとんどが破壊されました。
一方の神社もまた、貴重な資料や伝統行事が建物の焼失や担い手の減少に伴い消えていきました。
しかし中には、数百年来の行事を受け継ぐ神社もあります。
06/“当時”をのこす建築物